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私の読書感想メモ

家族が語る山下清 山下 浩


「放浪の画家」山下清の甥で貼り絵の指導を受けた著者が、未公開の写真を交えながら、その素顔をつづった本です。これまで山下清に関するものは多く出版されていますが、家族が書いた者はこれが最初です。驚異的な記憶力、超がつくほど几帳面、オシャレで負けず嫌い…まさにいっしょに暮らした家族だから書けた内容です。『週刊朝日』
「今年の花火見物はどこに行こうかな」この言葉を最後に、放浪の天才画家・山下清は1971年(昭和46年)7月12日の朝、49歳でこの世を去りました。
発行日 :2000.7.31

どれも知的障害者としての山下清像が先行しすぎているのです。
そのイメージのもとに絵画作品も批評されていることは非常に残念です。
「兵隊の位になおすと……」という流行語まで生み出したり、奇妙な言動で笑いを誘い、
映画やテレビドラマを通じて広く知られた山下清像が、
まったく実像とかけはなれているとは言いませんが、
家族だけが知るもう一人の山下清がいたこともまた事実です。

天才画家・山下清
大正11年3月10日、山下清は東京市浅草区田中町(現在の東京都台東区日本堤)で
生まれました。彼の幼少期は、災難が続く日々でした。

大正12年の関東大震災で家が全焼。
3歳の時には重い消火不良を起こし、3カ月間、高熱にうなされ歩けなくなる程の重態となりました。運良く一命は取りとめたが、これがきっかけで軽い言語障害となり、更に知的障害に進行してしまったのです。

昭和3年、浅草の石浜小学校に入学しますが、言語障害・知的障害のために
周囲の子供達から虐められるようになります。
更に、父が病死するなどの苦難が重なっていきました。
温厚な性格の清は、子供たちからの虐めには取り合わず、
虫取りや家にこもって絵を描くなどの孤独な毎日を過ごしていましたが、虐めがエスカレートするようになり、ついに暴力沙汰を起こすようになっていきました。

昭和9年、清の反抗的な行動に思い余った母は、清を千葉県の養護施設「八幡学園」に入園させたのです。
八幡学園で新たな生活を始めた清は、学園教育の一環として行われていた
「ちぎり絵」との出会いにより画才を開花させ、
独自の技法による「貼り絵」に発展させていきました。
「ぼくは放浪している時 絵を描くために歩き回っているのではなく
きれいな景色やめずらしい物を見るのが好きで歩いている
貼絵は帰ってからゆっくり思い出して描くことができた」