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私の読書感想メモ

山野 博史  本は異なもの味なもの


本書は著者による書評や短い文を拾い集めた文集である。愛書家として選び定めた旨みある書物や人物についてやわらかく的確に語られた文章のさざれ石。海老沢泰久『美味礼賛』、幸田文『木』、武田百合子『日日雑記』、向井敏『表現とは何か』、出久根達郎『人さまの迷惑』、谷沢永一『完本紙つぶて』、開高健『ALL WAYS T〜W』、森銑三や司馬遼太郎に対する和やかな眼差し、例をあげればキリもない。
 
著者は、谷沢永一にして「狂を上にもっていったほうがいい」と云わしめるほどの愛書狂。京大ドクターコース時代には知る人ぞ知る大阪桜橋の古本屋浪速書林へ無給の志願店員として入ったほど。ある日、著者が店にいると、見たことのある髪が白い黒ぶちメガネのおっさんが入ってきた。
司馬遼太郎である。
 「はっきり覚えていますよ。創元社から昭和十三年五月に刊行された函入りの内藤湖南の『支那論』をさっと抜いて、それと辛亥革命関連の研究書を一冊買われました。私はレジを打って代金を受け取ったのですが、手の切れるような一万円札を財布から出されたのが忘れられません。」(『人たらし』谷沢永一著より引用)
 著者はもとより司馬遼太郎にぞっこんで、各初版本を二冊ずつ発売当初から買い揃え、新聞雑誌の記事もすべて集める念の入れようであった。
初めて司馬遼太郎に接したときの感動たるや如何ばかりか。

そんな著者による初産ともなった本書。その巻等に司馬遼太郎が華を添えている。
それは著者山野博史をあたたかく包みこむ名文である。
ある本の話.分野を問わず、読みごたえのある本、批評に耐え得る中味のある本、好著との出会いを綴った、切れ味鋭い読書論。人がいて、本があって、そして訪れる満ちたりたひと時。しみじみと読者を励ます。司馬遼太郎の推薦文を収める

山野博史氏の山容 司馬遼太郎

山野博史氏は、奥州の猟師にとっての山の神のように、小出しにしか姿を見せない。
すくなくとも私にとって、十数年も小出しがつづいている。はじめは、文学部の先生だと思っていた。
古今の書誌に通暁し、玄人の市にまで顔を出す。
しかも文学書に限らず、人文、社会科学全般において、それらの書物の内容、さらには比較において、
きわだった含蓄を蔵している。もっとも、他者に問われても、決してみずから含蓄を見せることがない。
多分に少年の匂いをのこした風貌で韜晦している。私などは、ときに風俗史の学者かと思い、
しばしば近代文学史の先生だともおもったりした。
いずれも、氏との酒間の座談の上でのことである。右の諸分野での氏の見解に幾度か圧倒された。
猟師が山を踏みわけるうち、山の神が大きく姿を見せることがある。
氏の日常の講義の一端を仄かに知ったとき、この人が、法学部の政治学の先生であることに気づかされた。
猟師が熊から胆(い)をあざやかに取りだしてみせたような瞬間が、そのときの座談で感じさせられた。
私にとって、この山の神は、まだ全容を見せてくれていないような気がする。(了)

江戸のつぶやきを典雅な絵ばなしに−杉浦日向子「百物語」
着想が冴える粋な人間宝鑑−戸板康二「ぜいたく列伝」
なみだとほほえみの宝船をこいで−藤沢周平「半生の記」
たぐいまれな人間恋想譜−司馬遼太郎「十六の話」