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私の読書感想メモ

渡辺 一枝  私と同じ黒い目のひと―チベット・旅の絵本

出版社: 集英社 ;(1997/09)
内容(「BOOK」データベースより)
もう10年間も通いつめるその地によせる想いとは一体何か。この人しか撮れなかった日常、この人しか語れないその想いと現実。そこに住む人々と同じ目線でとらえたチベット。たっぷりの写真とともに一枝さんがチベットをご案内します。

内容(「MARC」データベースより)
「雲の生まれるところ」チベット。チベットに魅せられ、10年通いつめた著者が、人々の日常、想いと現実を写真と文で綴った。同じ黒い目のひととして、チベットの人々と同じ目線でとらえた今のチベット。

1987年3月に初めてチベットを訪れて以来、毎年のように出かけています
 1945年1月にハルビンで生まれ、7月には父が現地招集され、そのまま帰ってきませんでした。母と引き揚げてきてからも子どもの頃から、ずっと「チベット、蒙古、馬賊」という言葉の響きが頭の中にあって、その3つの言葉になにか惹かれるものがありました。
 チベットへの憧れはずっと持ち続けていましたが、今なお通い続けている理由のひとつは「なんとなくこの人達といると楽しい、心地よい、その理由を知りたい」という漠然としたものです。もう一つはっきりしているのは「私は1945年に満州国のハルビンで生まれた」ということでそれが私の中ですごい軛(くびき)になっています。
 人は生まれる時も、生まれる場所も選ぶことはできないし、自分の意思では決して生まれてはこれない。「生まれたことに何か意義を見つけたい」そう考えた時、当時の満州国と、中国に分割統治されている今のチベットが置かれている状況がかさなります。
 チベットの教育を受けていない30代以上の人はチベット語の読み書きができません。現在ではチベット語の授業が数時間もうけられているが、自分の名前さえ出生届には中国語表記です。そういう状況が、1945年満州で行われていた事と似ていて、自分としては「それは違うんだよ」と言い続けることがチベットをすこしでも変えていくことにもなり、それがチベットに通い続けている意味だと思い込んでいます。
目次
第1章 雲の生れるところ
(一日のうちに四季がある。自分の便利さのためにたくさんの生命を殺すなら僕はろうそくでたくさんさ)
第2章 労賃は羊
第3章 来世もまた人の世に
(過酷ともいえる祈りに寄せて彼等の願うことが「来世もまた人の世に」ということだと知れば
彼等は祈るために生きている。
第4章 「幸せかい?」
「祈っていればいつも幸せな気持ちでいられるよ。
だから祈りなさい。元気なときも病気のときも祈りなさい。
そしていつも幸せな心を保ちなさい。
「幸せかい?」
第5章 チンチロリンと仕事歌
第6章 風の馬
チベット歴4月15日は釈迦が悟りを開いた日、「サカダワ」
トラックはヒッチハイク、歩いてくる人もいる。
故郷から何か月も時には数年をかけて五体投地でくる人もいる。
第7章 懐かしい目の少女
(懐かしい目をした少女に出会いました。もしかしたら私は遠い昔、彼女だったかもしれない。
心の嚢の中には年齢とともに深く濃くなるものがあるに違いない。
言葉も交わさず別れた少女に、遠い日の私をみた)