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私の読書感想メモ

高木 敏子【作】・武部 本一郎【画】ガラスのうさぎ
金の星社 (2000-02出版)

内容(「BOOK」データベースより)
1945年3月10日、東京大空襲。東京の町は、戦火につつまれた。焼け跡には、敏子の家にあった「ガラスのうさぎ」が、ぐにゃぐにゃになって、ころがっていた。うさぎは、燃えさかる炎に身を焼かれながらも、戦争の悲惨さを、みつめつづけていたのだった―。東京大空襲で母と妹をうしない、その後、機銃掃射で父をも―。戦争の中を生きぬいた著者が、平和への祈りをこめて、少女時代の体験をつづった、感動のノンフィクション
高木敏子[タカギトシコ]
1932年東京都本所区(現・墨田区)に生まれる。文化学院卒業。処女作『ガラスのうさぎ』で、1978年厚生省児童福祉文化奨励賞(呼称は当時)、1797年日本ジャーナリスト会議奨励賞を受ける。『ガラスのうさぎ』は実写映画化、NHK銀河テレビ小説でのテレビドラマ化の他、合唱組曲、英語劇にもなり、また英語、中国語、スペイン語、ハンガリー語をはじめ、世界各国で翻訳版が出版されている
昭和十九年、敗色のこくなる一方の日本は、生活必需品は配給制になって久しく、学生は学徒兵として出征し、壮年男子も軍需工場に動員され、十四歳以上の女学生も女子挺身隊員として徴用されていった。東京両国の川井ガラス工場も、父の房雄が最後のガラスのうさぎの置物を作っていた。工場は軍の指定工場になる予定であった。小学六年生の敏子の二人の兄も、既に特攻隊員として志願していた。長兄の昭雄は戦地への出発を前に家族に別れを告げに来るが、病弱の母と口論となって、悲しい別れとなってしまう。二日後の次兄、和雄の別れは敏子一人が西宮に行った。やがて空襲が激しくなり、敏子は妹の友子と文子を連れ二宮に疎開するが、幼い妹達は母恋しさに東京に戻ってしまう。一人残った敏子に、母と妹が三月十日の東京大空襲で行方不明という知らせが入った。父と二人で工場の焼跡を掘りだす。が、遺体は見つからず、無残に溶けたガラスのうさぎが出て来るのだった。八月五日、敏子と父が新潟へ向かう列車を二宮駅で待っていると、突如米軍機が襲いかかり、父は敏子の目の前で殺された。ひとり残された敏子は、父の遺体を運び、埋葬の手続きをすますのだった。父親を火葬にするために荷馬車一台分の薪がいるという。
その父と同じ部屋で寝ながら悲しみにうちひしがれ、夜の海に歩み入る敏子だが、「私が死んだら誰がお父さんのおとむらいをするの……」。暗い波の中から再び立ちあがった。八月十五日、父の死から十日たらずで敗戦となった。次兄の和雄が復員してきた。「大きいお兄いちゃんが帰ってきたら三人でガラス工場をつくろう」と敏子は、亡き父母から託された貯金を兄に渡す。やがて長兄の昭雄も復員してきたが、敗戦の混乱の中、生活はきびしく、“三人でガラス工場を"という願いもかなえられない。しかし、十二歳の少女敏子は、焼け溶けたガラスのうさぎを両親の墓に埋めると、けなげに荒廃した街へ歩きだすのだった。