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私の読書感想メモ

斉藤茂太著 「年より」の腕まくり
1916年生まれ。父は詩人・斉藤茂吉、母は海外旅行好きで勇名を馳せた輝子さん。
作家で医師の北杜夫氏は弟に当たる。
精神科の医師にして作家・エッセイスト。
趣味の世界から本職の精神科医まで、旺盛な好奇心と行動力をもって、
病院経営のほか幅広く多彩な執筆や講演活動をこなす。
明治大学文学部・昭和大医学部・慶応大医学部卒。
専門分野: 精神医学、異常心理学、人間学。
医療法人財団・赤光会 斉藤病院理事長・名誉院長
ストレスと心の健康、親子学、夫婦学、長寿社会、歴史と文学、病跡学、旅と健康、
食と心などのテーマで講演を行っているほか、「茂吉の体臭」「精神科医三代」「飛行機とともに」
「飛行機談義」「人生は思い立ったら旅支度」など150冊

意識していないと、ほうっておくと年寄りはどんどんと醜くなる。
介護が必要な年寄りは「10人に一人」、ほとんどがピンピンしてる。
六十代は「年寄りにあらず、七十に近づいたらぼちぼちだ。

斎藤 茂太【著】 あきらめ力―「あきらめた」とき、新しい人生が開ける
新講社 (2005-06-06出版)



仕事・人間関係・悩み・こだわり…「あきらめ上手」がストレスに勝つ。
気持ちをリセットする法。

1章 「あきらめ力」とは、決断する力である
2章 「あきらめ力」があれば、いい勉強ができる
3章 「あきらめ力」で、ゆっくり得をしよう
4章 「あきらめ力」が、人生を仕切り直す
5章 「あきらめ力」で、落とし所を見つけよう
6章 「あきらめ力」が、人を伸ばす
7章 「あきらめ力」とは、生きる力である
斎藤茂太[サイトウシゲタ]
精神神経科・斎藤病院名誉院長として、悩める現代人の「心の安らぎコンサルタント」をつとめる一方、
日本旅行作家協会会長、日本ペンクラブ理事など、多方面で活躍中
メモ
・とりあえずやってみてダメだったらすぐあきらめよう。
・「人は人」と割り切って、上手にあきらめる。
・納得できないことも「いい勉強になった」であきらめる。
・仕事は「あきらめ半分」のほうがうまくゆく。
自分の世界にひたる生き方か、人と強調しあう生き方か。

斎藤 茂太 回想の父茂吉 母輝子



内容(「BOOK」データベースより)
日本の文学史上燦然と輝く大歌人茂吉と自分主義に徹した不思議人輝子。
尋常一様でない組み合わせからくる軋轢を、
もっとも身近に体験した著者が、両親およびその
血脈である斎藤家の人びとを虚心に描く、長篇エッセイ。
(1997-12-18出版)
永井ふさ子さんのこと
昭和28年、父が死んだあと、父のふさ子さんあての「恋文」を公表していいかと中央公論社から伺いをたてられたときに初めて永井ふさ子さんの事を知る。
弟の北杜夫と相談して、父は「公人」であるという意味で公表に賛同した。
息子の私が心情的にふさ子さんへの拒絶反応を示したとしても不思議はなかろう。
父が必ず焼き捨てるように頼んだ恋文を公表する行為は美しいとは言えない。

わが帰りをかくも喜ぶわが子等に いのちかたぶけこよい寝むとす。

齋藤茂吉と妻輝子。
輝子のスキャンダルは茂吉にとってショックだった。茂吉は輝子に別居を命じる。
さらに反省を求め、輝子を郷里上山の弟が経営する旅館「山城屋」に預ける。
そして茂吉は心痛を紛らわせるようにふさ子さんと人麿研究に邁進する。

正岡子規三十三回忌のその折り、永井ふさ子と知り合う。茂吉55歳、ふさ子27歳

光放つ神に守られもろともにあはれ一つの息を息づく
掲出歌は、斎藤茂吉の晩年の恋人だった永井ふさ子が、茂吉と合作した歌である。
というよりは、上の句を茂吉が作り、ふさ子に下の句を付けさせたものである。

茂吉はこの恋を捨て、養子先の斎藤家とアララギの宗匠としての面目を選んだ。
それにもかかわらずふさ子は、一度は別の男性と婚約するのだが、
茂吉のことが忘れられずに一生を独身で通した。

父の性格の中に、臆病、社会的体制のこだわり、(養子の立場とも無縁ではない)冒険を好まない要素も
存在するようだ。
それが父の恋愛が成就しなかった理由の一つとも思える。
私は父母の遺体を解剖したのはすべてを解明したかったからだ、
だがふさ子さんには会見を求められても会わないと決断した。

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