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私の読書感想メモ
白洲 正子 (著) 西行
内容(「BOOK」データベースより) ねがはくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月の頃―23歳で出家し、 1190年2月73歳で寂すまで平安末期の動乱の世を生きた西行。 その漂白の足跡を実地にたどりつつ、歌の読み込みに重点を置き、ゆかりの風物風土の中で味わうことによって自ずと浮かび上がってくる西行の人間的真実。 待賢門院への思いなど、謎に満ち、伝説化された歌聖の姿に迫り、新たな西行像を追求する。 出家した後も待賢門院のところの女房たちとか、通りすがりの遊女相手に粋な歌のやりとりをしてみたりという艶やかさもあったり。もちろん「西行花伝」 白洲正子は、明治43(1910)年、樺山伯爵家の次女として生まれました。幼少から能に親しむなど伝統文化に囲まれて育ち、14歳でアメリカに留学。帰国後、日本の復興に尽力することになる白洲次郎と結婚します。戦後は、小林秀雄、青山二郎など日本文化の巨匠たちと交流を深め、文学・古典・古美術のせ界へ傾倒。そこから吸収したものを随筆、評論として発表し、生涯、自分を「どきどきさせるものだけが美しい」という白身の価値観を貫きました。 |
惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは
身を捨ててこそ身をも助けめ
管理人メモ 重代の勇士 北面の武士というのは、射技や馬術などの武芸に秀でているのと同時に、文や風雅の道もわきまえていなければ一人前といえない役柄である。 思ったらすぐに実行に移すのが勇士の習性で、その性格は生涯変わることはなかった。 若いころは好き嫌いがひどくて癇癪持ちで、世話になっている人でも、 一旦見切ってしまうと簡単に縁を切ってしまった |
になびく富士のけぶりの空に消えて ゆくへも知らぬわが思ひかな 西行入滅は、建久元年(1190)だから、最晩年の作としてほぼ当っている。 西行がこれぞ我が第一の自讃歌と、自負していた |