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私の読書感想メモ

沢村貞子著 老いの語らい
岩波書店 1997/01出版



対談相手幸田文とは明治の暮しの豊かさに共鳴しあい,歴史家・原田勝正に治安維持法下の青春を明かす.黒柳徹子を前に亡夫を偲び,永六輔とは葬式を話題にするなど,率直で楽しい語り口が胸を打つ対談集.NHKの「ラジオ深夜便−母を語る」も収録. 出版社/著者からの内容紹介
人生の達人,沢村貞子が多彩な人々と語り合う.対談相手幸田文とは明治の暮しの豊かさに共鳴しあい,歴史家・原田勝正に治安維持法下の暗い青春を明かす.永六輔とは葬式を話題に,黒柳徹子を前に亡夫を偲び50年を回想するなど率直で楽しい語り口が胸を打つ対談集.
NHKの「ラジオ深夜便−母を語る」も収録.
内容(「MARC」データベースより)
1996年夏、87歳の生涯を静かに閉じた沢村貞子。幸田文、山田太一、黒柳徹子、永六輔ら8人と、楽しく笑い、ときにはほろりとさせる対談集。人間味あふれるエッセイも多数収録。
澤村貞子  
生年 ■ 1908/11/11
出身地 ■ 東京都
没年 ■ 1996/08/16
関連人物
加東大介 弟
沢村国太郎 兄
長門裕之 甥
津川雅彦 甥
藤原釜足 元夫
女優沢村貞子は晩年、夫の大橋恭彦とともに横須賀市秋谷のマンションへ移転。
台所仕事の傍らエッセーを書いたり、海をながめて、心静かに余生を過ごした。
美しく老いるってあり得ないのよ、老醜って言葉があるくらいでしょ。
だからね、せめてこぎれいにしていようと思うの」
そして夫の死去2年後の1996年8月、波乱の生涯を閉じた。87歳だった。
遺骨は遺言に従い、夫のそれと一緒に相模灘に散骨された
名脇役として、長く芸能界で活躍した沢村貞子。文筆家としても有名な彼女は、いくつもの名エッセーを残した。狂言作者の娘として生まれ、大芸能一家で育った貞子は、粋で毅然(きぜん)とした生き方を貫き通した。大女優の人生を支えた夫婦愛と、信念の生き方に迫る
沢村貞子は明治41年、浅草に生まれた。兄の沢村国太郎と弟の加東大介は映画俳優。姉のせい子は高名な社会活動家で民俗学者。また俳優の長門裕之と津川雅彦はおいに当たる。
 沢村は第一高女から日本女子大へ進学した。「一生懸命働いた人がみんな幸せになるために」との文句が気にいって劇団に入ったが治安維持法にひっかかって懲役3年・執行猶予5年(24歳)に関係して大学を退学。
「赤い女優」と騒がれ、官憲に逮捕された。兄に勧められて役者になる。
大橋との出会いは、敗戦直後の京都で、「都新聞」の記者だった大橋が沢村を取材したことに始まる。
その晩に、京都の市電でばったりあった。
ともに別居中とは言え別の人と結婚していた。沢村と暮らすために、家も仕事も捨てて東京へ行く。
以後、ずっと二人の生活を大事にします。ほとんど経済的には沢村さんの女優稼業に依存している。
その慰謝料と大橋が刊行した「映画芸術」の赤字補充のため、沢村は働きに働いた。
それをグチったりせず、いつも大橋を立てて、二人で働いたお金は一つのツボに入れた。
大橋は映画やテレビ評を書く一方で、沢村のマネジャー役に徹した。
そういう大橋を沢村は「ダンナ」とか「トノ」と呼んでいた。
二人が始めてあったのは38歳のとき、向こうに子供がいたので、子供のお父さんをとるわけには
いかないと思って60歳になるまでセッセと働いて、あちらにお金を送ったりして、60歳になってやっと夫婦になった。子供はあきらめたのです。
沢村はエッセイストとしても有名で、「貝のうた」「私の浅草」「老いの楽しみ」など著書も多いが、
それらの原稿はすべて大橋が目を通して、チェックしていた。
プライドの高い男だったので、沢村に礼を言うことはなかったが、死後出てきた日記帳の冒頭に「ありがとう」と書いてあった
・人間は高望みをすると、ろくなものにはならない。
・幼い頃から、私は母の乱れ髪をみたことがない。
「お多福がだらしのない格好をしていると、まわりの人に悪いからね」
「ほかに能がないからね。せめてせっせと働かなけりゃ」
「愚痴は誰も買ってくれない」
「おたがいさまだよ」
他人の気持ちをいたわること−それを母から繰り返し仕込まれた。
・母は80歳のときに、ひそかに泣いて(夜中に)ケロッとしていた。
・母は自分が自分がと思わないで、みんながみんなが、と思っていた。