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私の読書感想メモ

佐野洋子(谷川俊太郎氏 夫人)  100万回生きたねこ



「100万年もしなないねこがいました。100万回もしんで、100万回も生きたのです。
りっぱなと らねこでした。
100万人のひとが、そのねこをかわいがり、100万人のひとが、
そのねこがしんだ ときなきました。ねこは一回もなきませんでした。」

これはひょっとすると大人のための絵本かもしれないが、
真に大人のための絵本ならば、
子供もまた楽しむことができよう。それが絵本というものの本質であるはずだ。
そして『100万回生きたねこ』は、絵本の本質をとらえている。(週刊朝日書評より)

このとらねこ一代記が、何を風刺しているかなどと考えなくても、すごいバイタリティーをもって生き、かつ死んだ話をおもしろいと思ってみればよいと思う。
上級から大人まで開いてみて、それぞれに受けとめられるふしぎなストーリーでもある。
飼い主へのつながりが無視され、前半と後半が途切れているようで、
みていくとつながってくるふしぎな構成である。(日本経済新聞「こどもの本」書評より)
あるとき,ねこは王さまのねこでした… ねこは、しぬのなんかへいきだったのです
あるとき,ねこは船のりのねこでした… ねこは、しぬのなんかへいきだったのです
あるとき,ねこはサーカスの手品つかいのねこでした… ねこは、しぬのなんかへいきだったのです
あるとき,ねこはどろぼうのねこでした… ねこは、しぬのなんかへいきだったのです
あるとき,ねこはひとりぼっちのおばあさんのねこでした… ねこは、しぬのなんかへいきだったのです
あるとき,ねこはの小さな女の子のねこでした… ねこは、しぬのなんかへいきだったのです
、「ねこは、しぬのなんかへいきだったのです」
ねこはもう,けっして生きかえりませんでした

神も仏もありませぬ

メモ
私の知人は徘徊する母親の腕と自分の腕とをひもで巻きつけて、
何年も看病し、浴びるように酒を飲んでいた。
そして母の通夜の晩・脳溢血で自分も死んでしまった。
どんな感想も言葉もその事実の前に無力だった。人は長生きしすぎたのだ。
60の還暦を迎えたときに友人は「ねぇねぇ、60歳ってすごく嬉しくない?
何でも自由にできる時がやっときたんだよ。
もう私の未来キラキラ光るみたいよぅ」と発言した。
しかし私は唖然とした。私にとって60はついにきたどんずまり、人生の山場の山頂まで登って、あとはころがり落ちる
ばかり、死の谷に向かって立っているとしか思えなかった。
前向きの人生と、いじましく老いにつかまれたと感じる性質の違いに、反省と自戒を思ったが、
私の腹の底は強情に、やっぱりころげ落ちるのだという石みたいなものが動かなかった。
岡本かの子「いよいよ華やぐいのちなりけり」
田中澄江「体力的にも精神的にも60代が自分の人生のさかり」
そういう人はエリ−トなのだ。
私は生きる意味を見つけ出しかねた。子供が育ち上がってから私は何の役割もないのだった。
その日その日を生きて、飯くって糞して眠るのだった。
夏椿の夢をみた。

夏椿の中で死んでいく夢をみた