プラウザの「←戻るボタン」で戻り下さい
私の読書感想メモ
歴史の謎研究会【編】 いまさら聞けない日本史の大疑問
青春出版社 (2001-11-20出版)
前方後円墳の前と後ろはどうやって決めた?江戸時代、織田信長の子孫はどこで何してた?…ほか全部まとめて完全解答。
第1章 遺跡・建物の大疑問―前方後円墳の前と後ろはどうやって決めた?
第2章 モノの値段の大疑問―新撰組と坂本竜馬の亀山社中、どっちが高給だった?
第3章 事件のウラの大疑問―秀吉の刀狩りになぜ農民はやすやすと応じたのか?
第4章 あの人物の大疑問―遠山金四郎と大岡越前ではどっちがえらかったのか?
第5章 ちょっと気になる大疑問―石器時代の石包丁の切れ味はどうだった?
第6章 いまさら聞けない大疑問―戦がなかった江戸時代の武士の刀の腕前は?
どうして徳川家には菩提寺が二つあるのか? 増上寺ー家康。天海が取り入って寛永寺ーここに家光、家綱、綱吉もここにお墓がある。 増上寺が怒ったので両方の寺を菩提寺とした。家重。 ところが15代の慶喜は大政奉還後一貴族になったので庶民と同じように谷中墓地に葬られている。 彼は静岡で男10人、女11人の子供がいたがすべて側室の子だったとか・・ 妻の美賀子 「御三家」は、親藩(徳川家一門の大名)の一種で、紀伊徳川家・水戸徳川家・尾張徳川家 この3家は他の親藩と違い、血統保持の役目を持っていたので、将軍家の血統が絶えた時、3家の藩主の内、誰かが将軍家を継ぎました。 また、「御三家」から出た将軍は、8代将軍・吉宗(紀伊徳川家出身)と14代将軍・家茂(紀伊徳川家出身)です。 「御三卿」は、「御三家」と同じく徳川家の一族で、清水家・田安家・一橋家の3家 「御三卿」は「御三家」と同じく血統保持の役目を持っていましたが、領地は持たず、それぞれ十万石を賄料として与えられ、江戸城に住んでいました。 また、「御三卿」から出た将軍は、11代将軍・家斉(一橋家出身)と15代将軍・慶喜(一橋家出身)です。 ちなみに、明治維新の際に徳川家の処分が問題になりましたが、勝海舟らの活躍により、田安家当主の田安慶頼の子・田安家達(亀之助)が徳川家を相続し、廃藩置県まで、駿河府中藩主となりました。 いつ徳川幕府が復活しても良いように大奥が解体された後も世継ぎを教育するために妻の美賀子は13代、14代夫人とともに残った。 一人子供がいたが病死して、明治27年に夫とも別れたまま、淋しい晩年を送った。 第十六代:徳川家達(いえさと) 幻の将軍 鎧の重さーフル装備したら50〜60キロ。「尿筒」=しとづつ 「シタニイ、シタニイ」と行列したのは徳川家御三家 将軍が出かけるときには道路が掃き清められ、庶民の通行は禁止されていた。 |