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私の読書感想メモ
ネスコ編 教科書で覚えた名詩
詩の暗唱をしたことありませんか? 試験で空欄に埋めた言葉、ふと出てきたりしませんか? 国語が好きだった方も、嫌いだった方もきっと耳のどこかに残っていることばがここにあります。 なぜって? 昭和二十年代から平成八年までに使われてた中学・高校の国語の教科書から、よりすぐった詩歌集なのです。 |
「冬が来た」 高村光太郎 きっぱりと冬が来た 八つ手の白い花も消え 公孫樹(いてふ)の木も箒になった きりきりともみ込むやうな冬が来た 人にいやがられる冬 草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た 冬よ 僕に来い、僕に来い 僕は冬の力、冬は僕の餌食(えじき)だ しみ透れ、つきぬけ 火事を出せ、雪で埋めろ 刃物のやうな冬が来た |
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「雨ニモマケズ」 宮沢賢治 雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダモチ 欲ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニレズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ 東に病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西にツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲の束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ 「昭和六年35歳 九月、炭酸石灰とその製品見本をもって上京し、神田区八幡館で発熱臥床した。このとき死を覚悟して、父母近親への遺書二通を書いたが、父の厳命によって帰宅し、病床生活に入った。十一月三日、手帳に「雨ニモマケズ」を書いた。」とある。 菩薩道を求めての賢治の生涯は終わりに近づくにつれ、その求め方はいよいよ激しくなった。 |
旅上 萩原朔太郎 ふらんすに行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し せめては新しき背広をきて きままなる旅にいでてみん。 汽車が山道をゆくとき みずいろの窓によりかかりて われひとりうれしきことをおもはむ 五月の朝のしののめ うら若草のもえいづる心まかせに。 詩人。父密蔵は前橋の開業医。前橋中学校卒業後、熊本の第五、岡山の第六高等学校に学んだが中退。 1917年詩集『月に吠える』によって、日本近代詩に不滅の金字塔をうちたてた 母をおもう 八木重吉 けしきが あかるくなってきた 母をつれて てくてくあるきたくなった 母はきっと 重吉よ重吉よといくどでもはなしかけるだろう 八木重吉は明治31年(1898)東京に生まれました。師範学校時代から日本メソジスト鎌倉教会に通い、タゴールの詩を愛読します。内村鑑三に傾倒し無教会主義の信仰に近づいていきます。大正10年に兵庫県の御影師範の教師として赴任し、このころから詩作に専念し、詩と信仰の合一をめざします。翌年結核と診断されて入院し、その後自宅療養に入りますが、昭和2年(1927)敬虔なキリスト信徒として29歳の短い生涯を終えました。 「私は、友が無くては、耐えられぬのです。しかし、私にはありません。この貧しい詩を、これを読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。」第一詩集「秋の瞳」序に書かれた言葉のなんと哀しいことか。結核療養のため転居した茅ヶ崎十間坂の寓居で死んだ詩人。 |
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小諸なる古城のほとり 島崎藤村 小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なすはこべは萠えず 若草も籍くによしなし しろがねの衾(ふすま)の岡辺 日に溶けて淡雪流る あたゝかき光はあれど
野に満つる香も知らず 浅くのみ春は霞みて 麦の色わずかに青し 旅人の群はいくつか 畠中(はたなか)の道を急ぎぬ 暮行けば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛(歌哀し) 千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む |
明治5年、長野県西筑摩郡馬籠村(現・木曽郡山口村神坂馬籠)に生まれる。藤村の生家島崎家は、関東の三浦一族に始まり、戦国時代は木曽氏に仕え、西からの勢力の守りにつとめました。 本名島崎春樹。生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた旧家。 父正樹、母ぬいの間の末子。 9歳で学問のため上京、同郷の吉村家に寄宿しながら日本橋の泰明小学校に通う。明治学院普通科卒業。明治女学校、東北学院、小諸義塾の英語、国語教師として教鞭をとるかたわら「文学界」で北村透谷らとともに浪漫派詩人として活躍、明治30年には詩集『若菜集』を刊行。 大正2年フランスへ渡り、 第一次世界大戦に遭遇し帰国。 昭和18年『東方の門』執筆中に脳溢血で倒れ永眠。 神奈川県大磯町、地福寺に埋葬される。 馬籠の菩提寺永昌寺には分骨として、藤村の遺髪・遺爪とともに冬子夫人、夭逝した三人の娘たちが眠ります。 |
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落 葉 松 北原白秋 一 からまつの林を過ぎて、 からまつをしみじみと見き。 からまつはさびしかりけり。 たびゆくはさびしかりけり。 二 からまつの林を出でて、 からまつの林に入りぬ。 からまつの林に入りて、 また細く道はつづけり。 三 からまつの林の奥も、 わが通る道はありけり。 霧雨のかかる道なり、 山風のかよふ道なり。 四 からまつの林の道は、 われのみか、ひともかよひぬ。 ほそぼそと通ふ道なり。 さびさびといそぐ道なり。 五 からまつの林を過ぎて、 ゆゑしらず歩みひそめつ。 からまつはさびしかりけり。 からまつとささやきにけり。 六 からまつの林を出でて、 浅間嶺にけぶり立つ見つ。 浅間嶺にけぶり立つ見つ。 からまつのまたそのうへに。 七 からまつの林の雨は、 さびしけどいよよしづけし。 かんこ鳥鳴けるのみなる。 からまつの濡るるのみなる 八 世の中よ、あはれなりけり。 常なれどうれしかりけり。 山川に山がはの音、 からまつにからまつのかぜ。 |
北原白秋の故郷は水郷で有名な、あの福岡県柳川。 (写真はひろ様より)落葉松林 |
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汚れちまった悲しみに 中原中也 頑是ない歌
思へば遠く来たもんだ 十二の冬のあの夕べ 港の空に鳴り響いた 汽笛の湯気〈ゆげ〉は今いづこ 雲の間に月はゐて それな汽笛を耳にすると 竦然〈(しようぜん)〉として身をすくめ 月はその時空にゐた それから何年経つたことか 汽笛の湯気を茫然と 眼で追ひかなしくなつてゐた あの頃の俺はいまいづこ 今では女房子供持ち 思へば遠く来たもんだ 此の先まだまだ何時までか 生きてゆくのであらうけど |
明治40年(1907年)4月29日、山口市湯田温泉 山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村に生まれ、幼年期 は、陸軍軍医であった父に従い、旅順、山口、広島、金沢に移り住みます。 1923年(16歳 京都の立命館中学第3学年に編入学。 表現座に所属していた3歳年上の女優長谷川泰子を知る。
中也は30年の短い生涯を詩のことにのみ捧げ、生前充分な評価を得ることのないまま、志半ばにして異郷の地で没しました。 死の間際、中也が母「フク」に残した最期の言葉は・・・ 「僕は本当は孝行息子だったんですよ。今にわかる時が来ますよ。」 |
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自分の感受性くらい 茨城のり子 ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか 苛立つのを 近親のせいにはするな なにもかも下手だったのはわたくし 初心消えかかるのを 暮しのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ |
山のあなた カール=ブッセ(上田敏訳) Uber den Bergen, weit zu wandern, sagen die Leute, wohnt das Gluck. Ach, und ich ging im Schwarme der andern, kam mit verweinten Augen zuruck. Uber den Bergen, weit weit druben, sagen die Leute, wohnt das Gluck. 山のあなたの空遠く、 「幸」住むと人のいふ。 ああ、われひとと尋めゆきて、 涙さしぐみ、かへりきぬ。 山のあなたになほ遠く、 「幸」住むと人のいふ。 著者の上田敏(1874〜1916)は、東京師範高等学校教授で、また東京帝国大学の英文学講師も兼任していた。その彼が明治35年から38年にかけて発表した翻訳詩を集めたものが『海潮音』である |
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都に雨の降るごとく ポール・ヴェルーヌ 鈴木 信太郎 訳 都に雨の降るごとく わが心にも涙ふる。 心の底ににじみいる この侘しさは何ならむ。 大地に屋根に降りしきる 雨のひびきのしめやかさ。 うらさびわたる心には おお 雨の音 雨の歌 かなしみうれうるこの心 いわれなくて涙ふる。 うらみの思いあらばこそ ゆえだもあらぬこのなげき。 恋も憎しみもあらずして いかなるゆえにわが心 かくも悩むか知らぬこそ 悩みのうちのなやみなれ |
ポール・ヴェルーヌ マラルメ、ランボーとともにフランス象徴主義の代表的詩人。市役所に勤める傍ら、高踏派詩人と交わり、「現代高踏詩集」に詩を6篇寄稿する。終生、飲酒、放蕩の悪癖に悩まされた。1871年、ランボーの詩才を高く評価、ともに放浪生活を送ったが、1873年、ブリュッセルでランボーを拳銃で負傷させ、2年間、モンスで牢獄生活を送る。 本書「言葉なき恋歌」を獄中で発表。晩年は貧困と病に苦しみ、まったくの放浪詩人となり、パリに没した。 872年から73年にかけて、ランボーとともにきたフランス、ベルギー、イギリスと放浪の旅のなかの心象風景がつづられた詩集で、イギリス滞在の影響が英語の標題にも見られる。 「都に雨の降るごとく」などの作品にあらわれているように、ヴェルレーヌの心象風景や叙情性が色彩感豊かに歌われている、ヴェルレーヌの代表的作品である。 ランボーとの同性愛は有名。泥酔錯乱したヴェルレーヌが、ランボオの左手首に発砲したのだ。ランボオの心はヴェルレーヌから離れて行き、一緒にロンドンに戻ろうと言う、ヴェルレーヌの願いをも拒否するようになったことでヴェルレーヌが自分を見失った結果、犯した事件だ。この事件で、ヴェルレーヌは逮捕され、同性愛により世間から非難され罵倒され、懲役2年罰金200フランの刑を受けた。 やがてランボオは文学とまったく絶縁し、その短い後半生を アフリカで商人としてすごした。 |