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私の読書感想メモ

宮澤賢治  雪渡り



雪がすっかり凍って大理石よりも堅くなり、空も冷たい滑らかな青い石の板で出来ているらしいのです。」という一文に始まる、絵本を開くと一面の雪の原がうっすらと青く、そして、
七色の虹のような光を帯びて輝いています。
雪のこおった月夜の晩、四郎とかん子は、こぎつね紺三郎と出会い、幻灯会に招待されます。
かた雪かんこ、しみ雪んこ―。賢治独特の幻想の世界に
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「凍み雪しんこ、堅雪かんこ、
    野原のまんじゅうはポッポッポ。
  酔ってひょろひょろ太右衛門が、
    去年、三十八、たべた。
  凍み雪しんこ、堅雪かんこ、
    野原のおそばはホッホッホ。
  酔ってひょろひょろ清作が、
    去年十三ばいたべた。」
 四郎もかん子もすっかり釣り込まれてもう狐と一緒に踊っています。
 キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キック、トントントン。
 四郎が歌いました。
「狐こんこん狐の子、去年狐のこん兵衛が、ひだりの足をわなに入れ、こんこんばたばたこんこんこん。」
 かん子が歌いました。
「狐こんこん狐の子、去年狐のこん助が、焼いた魚を取ろとしておしりに火がつききゃんきゃんきゃん。」
 キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キックトントントン。


宮沢賢治
幼少時代 質屋という陰険な商売や、次々病人が絶えなかったことから、いつともなく人の世の悲しみと
いうものが身にしみていた。
農林学校時代 姉のトシが肺をやみ、家に帰ってきてから、大正7年いらい続けていた菜食と寒行をしながら、法華経の道を実践していた。
家出 大正10年1月23日25歳で東京に家出する。浄土真宗をやめて法華経に帰依してと頼んだが聞き入れてもらえなかった。父が心配して上京して一緒に比叡山や奈良などを旅する。
姉のトシは花巻で教諭していたが、また病気になったので、賢治は東京で書いた童話の原稿を大きなトランクに入れて帰ってきた。
農学校教諭時代 妹のトシが24歳で亡くなる。
オルガンやオセロをならったり、病院の花壇を作ったりした時代。
羅須地時代
(らすちじだい)
大正15年・農学校の先生をやめる
「生徒には農村に帰って立派な農民になれと教えていながら、自分で先生をしてるのは心ぐるしいことだ。口だけでなく農民と一緒に、苦しくてもじっさいに土をほろう」
畑を作って野菜や花を作って町に売りにでます。いつも黄色の農民服と大きな麦わら帽子です。「羅須地人協会」となづけ、農学校で教えることを実際に教え、また音楽もしました、
いつも年も八月になると空もようばかり気にします。寒いと凶作になるからです。
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

そんな無理ばかりし、過労と粗食で体が弱ってきて、病床につくようになった。
砕石工場技師 その後三年も寝て病気もよくなった。
石灰岩を機械でくだいで肥料を作る工場に技師として懸命に働く。
その見本を持って上京し駿河台で高い熱を出して、家に帰ってきてそのまま病床につく
遺言状 この一生の間、どこのどんな子供も受けないような厚いご恩を頂きながら、いつも我慢でお心に背きとうとうこんなことになりました。
今生で万分の一もお返しできたかったご恩はきっと次の生また次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願します。
どうか信仰というのではなくても、お題目で私をお呼び下さい。
その題目で絶えずお詫び申し上げてお答えいたします。

父上さま
母上さま
臨終 それから2年は病床。九月21日、お昼、二階で合掌して題目を唱えていました。
父が「遺言することはないか」といいますと
「国訳妙法蓮華経を千部お作り下さい。
表紙は朱色、お経の後ろには”私の生涯の仕事はこの経を
あなたのお手元に届け、その中にある仏意にふれて、あたなが無上道に入られますことを”という事を書いて知己のかたにさしあげてください」
といいました。
少し水を飲んで、体中を自分でオキシフルをつけた脱脂綿でふいて、その綿をぽろっと落としたときにはもう息を引き取っていました、1時30分でした。(昭和39年1月20日)

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