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私の読書感想メモ


向田 和子著  向田邦子の遺言



没後20年にして初公開。
簡潔な文章と行間にこめられた家族への愛情、猫への思い
どこで命を終るのも運です──原稿用紙の走り書きは遺言だった。
死の予感と家族への愛があふれたその内容を実妹が詳細に解説する
どこで命を終るのも運です。体を無理したり、仕事を休んだりして骨を拾いにくることはありません。
(中略)仲よく暮して下さい。お母さんを大切にして。私の分も長生きすること──死の予感と家族への愛。茶封筒の中から偶然発見した原稿用紙への走り書きは姉の遺言だった。
没後二十年、その詳細を、実妹が初めて明らかにする。
1929年(昭和4年)11月28日、東京府荏原郡世田谷町(現・世田谷区)生まれ。
東京出身。保険会社に勤める父の転勤により日本各地を転々とする。
特に10歳から2年余り一家で移り住んだ鹿児島をのちに当時の生活を振り返って
「第二の故郷」と呼んだほど深く愛した。実践女子専門学校(現・実践女子大)国語科卒。
1981年(昭和56年)8月22日、旅行先の台湾での航空機事故で急逝。享年51歳。
映画雑誌の編集者を経てラジオ、テレビの台本・脚本を数多く書き、
昭和30年代終わりから50年代にかけてテレビドラマの高視聴率作家の座を維持。
ラジオエッセイで「森繁の重役読本」、「向田ドラマ」の代表作として、「七人の孫」(昭和39年)、「だいこんの花」(昭和45年)、「寺内貫太郎一家」(昭和49年)、
「阿修羅のごとく」(昭和54年)、「あ・うん」(昭和55年)、「隣りの女」(昭和56年)など。

1975年(昭和50年)、46歳のときに乳癌で手術を受ける。
それをきっかけに随筆やエッセイをかき始め、故・山本夏彦は週刊文春の彼女の連載を読んで「向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である」と絶賛した
(山本夏彦『恋に似たもの』所収、向田邦子『父の詫び状』の沢木耕太郎による
解説にもその言葉が紹介されている)。
その後小説の執筆も始めて直木賞を受賞、さらなる活躍を期待されたその矢先での急逝だった。

ちりばめられた姉の声
姉が突然私たちの前から姿を消して20年。
93歳の母と63歳の私は昔ながらの赤坂・氷川坂のマンションで暮らしている。
「お世話になった方々には、生きているうちにお礼の気持ちを伝えておくべきだ」と姉から学んだ知恵。
●どこで命を終るのも運です。仕事を休んだりして骨を拾いにくることはありません。
(中略)仲よく暮して下さい。お母さんを大切にして。私の分も長生きすること