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私の読書感想メモ

村松 友視 著 幸田文のマッチ箱

「幸田文」の旅をしてみよう−。母の死、父・露伴から受けた厳しい躾、弟の死、継母との関わり…。
作家・幸田文はどのように形成されていったのか。
その「作品」と「場所」を綿密に探りつつ、幸田文世界の真髄に迫る。
母の死、父・露伴から受けた厳しい躾、弟の死、継母との関わり…そこから浮かび上がる「渾身」の姿。
作家・幸田文はどのように形成されていったのか。
その「作品」と「場所」を綿密に探りつつ、幸田文世界の真髄にせまる極上の書き下ろし。
幸田文のマッチ箱
母の死から
継母のいる風景
みそっかすの眼
露伴の躾
“おとうと”の色
結婚と性
“流れる”季節
語り口と文体
この世学問
斑鳩の渾身
“崩れ”の宇宙
村松 友視
1940年、東京に生まれる。慶応大学文学部哲学科卒業。出版社勤務を経て、文筆活動に入る。
1982年、『時代屋の女房』で第八七回直木賞、97年、『鎌倉のおばさん』で第二五回泉鏡花文学賞受賞
幸田 文(こうだ あや、1904年9月1日 - 1990年10月31日)は日本の随筆家、小説家。

作家の幸田露伴の次女として東京向島に生まれる。6歳の時に実母幾美子を亡くし、翌年継母を迎える。
継母は家庭的ではなく、またリューマチを患っていたこともあって、文は女学校に通う頃から家事一切をまかせられました。
後に姉、弟も失う。24歳で1928年(昭和3年)清酒問屋に嫁ぎますが10年後に離婚。娘の玉(青木玉)を連れて父のもとに戻る。
「なにもかもほっぽり出して違うところに行きたかった」と四ヶ月ほど芸者置屋で女中奉公をする。

露伴没後、43歳の時父を追憶する文章を続けて発表、たちまち注目されるところとなり、昭和29年(
露伴没後に随筆集を出版し注目された。1955年、長編小説「流れる」で芸術院賞と新潮文学賞受賞、「黒い裾」で読売文学賞受賞。娘の青木玉、孫の青木奈緒も作家。

代表作に「黒い裾」、「流れる」、「闘」、「弟」などがあり、没後に「崩れ」「木」「きもの」などが発表されている。

著者は出版社に勤務していたころ、たびたび東京・小石川の幸田文邸を訪れた。
目に留まったのが、幸田が季節の千代紙を貼(は)ったマッチ箱。それ以来、手土産に箱をもらうのが常になった。
ある日、急に訪ねたとき、あわてて貼りつけたために糊(のり)が乾かず箱はひんやりとしていた。
著者は幸田のかわいらしさや生真面目(きまじめ)さなどに感じ入り、この体験を原点として彼女を追う旅を開始する。まず彼女の赴いた場に足を運び、会った人に話を聞いた。
また母、姉、弟らの肉親の死に次々と襲われた幸田の年譜を確認し、作品を通して、
父、露伴の厳しいしつけや離婚に至った彼女の結婚生活を辿(たど)った。

 浮かび上がったのは、幼少の頃から幸田にまとわりついてきた負の体験に、渾身(こんしん)の力を込めて輝きを与え続けた姿。その先で“崩れ”という生涯をくくる大テーマに出くわした。作品『崩れ』こそ幸田自身への鎮魂歌だ、と著者は言い切る。

七十を過ぎてから奈良の斑鳩の法輪寺三重塔建立に力を注ぎ、木の世界に興味を抱いている時期だった。
三重塔建立は、父露伴が小説という虚構の中でつくり上げた“五重塔”を、自分は現実につくろうという決死の試みだった。
法隆寺再建で著名な宮大工西岡常一、弟子小川三夫とその弟子の工人集団との運動を「はじめから終わり迄、
全員気をそろえて労働した、そのなんともいえない活気。
みごとで貴くて、この上なくよき作業だった。あんまりいいものに出逢うと、私ははらはらして胸がせつなくなる」と書いている。

雑巾の絞り方、障子の張り替えに始まり、父の名代として葬儀に出席する際の口上など、露伴が文に生活のなかで施した術は、単なる気配り・常識を教えることにとどまらなかったと思う母幾美さんの死後は、継母八代と父露伴の態度に3人の”空無”な関係を感じていたといいます。
さらに、幼くして亡くなった姉歌や弟成豊への思いを、初期の作品『みそっかす』、『あとみよそわか』、『おとうと』などから読み取っています。
晩年、安倍峠に楓を見に行った途中に、自らの生涯をくくるテーマとなった<崩れ>を見る。

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