私の小さな旅、トップに戻ります 私の読書メモに戻ります

プラウザの「←戻るボタン」で戻り下さい

私の読書感想メモ

早坂暁著 山頭火−何でこんなに淋しい風ふく

作家
1929年(昭和4年)愛媛県生まれ
能楽、華道、茶道の新聞編集や評論活動ののち、シナリオライターとして主にテレビドラマ、
テレビドキュメンタリーを執筆
豊かな人間像を描き独自の作風を確立
作品に「夢千代日記」「空海」「花遍路」「天下御免」など
放送文化基金賞(’79年)
芸術選奨文部大臣賞(’82年)
紫綬褒章(’94年)ほか 芸術祭優秀賞、放送文化賞など多数の賞を受賞


山頭火の風景
写真を撮った草木さんは言う・
「山頭火という人は写真をとるというと
両足をきちんとそろえてしまう。
だから足をこう歩き出すような格好に
して、って頼んだのです。


山頭火は11歳の時に母を失った。母の死は病気ではない。自殺である。父は女道楽の人であった。父が妾を作り、その妾と行楽の旅に出た留守に井戸に身を投げた
ちょうど山頭火少年は近所の子供達と遊んでいた。
井戸から引き上げられる母親の、水びたしの姿を見たのである。
のちに僧となって行乞の旅を続けることになった山頭火は、白布に母の位牌を巻いて持っていた。
「あんな死に方をした母は成仏していない」
そう思って母の成仏を願って行乞の旅を続けたのである。
”悲しい””淋しい”という言葉がいっぱい句の中に入っている。
そして”死”の句が多いのだ。こんなに死の句を読んだ俳人も少なくないのではないか。
「弱者よ、苦しめ・苦しめ。苦しみうる限り苦しめ。弱者は苦痛に生きる。
苦痛の燃焼によってのみ力と光とを生むことができる」
「涙が女の武器であるように、誇張は弱者の避難所である。」
−雑誌に載せた一文。


金子兜太(とうた)著  秀句鑑賞−放浪行乞の日々

人生の観照者
放浪行乞の生涯に二つの節目がある。
行乞とは修行と乞食が一緒になった姿で托鉢という形の物乞いの旅
うしろすがたの しぐれてゆくか
昭和14年、最後の東国への旅が終わるころで、この時期から俳句観が変わる。
「行」の面影は遠のいて「乞」の有り体に傾いていく。
春の山からころころ石ころ
今日も事なし凩(こがらし)に酒量るのみ
(結婚して長男が生まれ・酒造業で安定していた時期でありながら「事なし」「量るのみ」と
言っているところに不満や、充足されない気分の翳(かげ)が見える。
分け入っても分け入っても青い山
炎天をいただいて 乞ひ歩く
鴉啼いてわたしも一人
『咳をしても一人』は尾崎放哉の代表的な句であり、病弱だった放哉の透き通るような孤独感を表した..これに山頭火が和して詠んだのがこの句。
もりもりもりあかる雲へあゆむ
昭和15年(59歳)10月11日午前4時(推定)一草庵で他界。
この前日はお祭りでお神酒をいただいて山頭火は酔って寝てしまった。
この庵で定例の句会が開かれていたが朝になっても山頭火はあらわれなかった。
山頭火が願った「コロリ往生」であった
死の5日前の日記には
「とんぼが、はかなく飛んできて身のまわりを飛びまわる、
とべる間は飛べ、やがて、飛べなくなるだろう」


私の小さな旅、トップに戻ります 私の読書メモに戻ります