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私の読書感想メモ

林芙美子
本名林フミコ、(1903年12月31日 - 1951年6月28日)は、山口県下関市生まれ(自称)の小説家。
晩年は映画化されるなど女流作家として確固たる地位を築いたが、作風は自らの貧困に苦しんだ生い立ち、
流浪の経験などを基にした、生々しい実感を伴う表現や人物描写が特徴である。
「花のいのちは短くて苦しきことのみ多かりき」という彼女の言葉は広く知られている。

行商を営んでいた宮田麻太郎と林キクの間に非嫡出子(婚外子)として生まれた。
麻太郎とキクの離別後、母キクとキクの結婚相手である沢井喜三郎(養父)とともに九州各地を行商で転々とし、
貧困の日々を過ごした。

多感な青春期を過ごした広島県尾道では少女時代から文才を発揮し、
恩師の進めもあって尾道市立高等女学校(現広島県立尾道東高校)に進学し、文筆の道を志す。

卒業後は岡野軍一を頼って上京。職を転々としながら友谷静栄と共に詩誌『二人』を創刊した。
俳優の田辺若男や詩人の野村吉哉と同棲したり、詩人岡本潤、壺井繁治らとの交友があった。

1926年に画家の手塚緑敏と結婚する。
1928年から雑誌『女人芸術』に19歳から23歳頃までの多感な放浪の日々を書き綴った私小説『放浪記』を連載し、
1930年に単行本として出版され当時のベストセラーとなった。『続放浪記』『放浪記―第三部』も出版されている。

戦時中は報道班員(従軍作家)となり、中国やフランス領インドシナに従軍した。
戦後も多くの小説・随筆を発表し、「晩菊」で女流文学者賞を受賞した。

夜10時過ぎに帰宅し、家族と団欒した後、床に就く。
11時を回っていた。突然、芙美子は苦悶し始め、電気アンマをかけたが、胸が苦しくなり
やめて床に就く。2時間あまりの苦しんで息が絶えた。
白い肌に紫色の斑点が出たという。
午前1時、帰らぬ人となる。47歳だった。心臓麻痺のため急逝した。
葬儀委員長は川端康成。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90

こうしていると人生も楽しいけれどねぇ・・でもつまらないね。世の中は本当につまらないね。
何のために生きているのかねぇ・・あぁ織田作(織田作之助)がうらやましいな。
太宰治も、うまいことやったなぁ、早いとこ、おさらばして・・」

清貧の書・屋根裏の椅子
◆風琴と魚の町◆耳輪のついた馬◆清貧の書◆屋根裏の椅子◆小区◆塵溜◆牡蠣

講談社 (1993-04-10出版)
母と義父とに連れられて幼い頃行商の旅に暮した体験を明るく牧歌的に描き切った短篇「風琴と魚の町」、
つましく生活する一組の夫婦の愛情を謳う「清貧の書」、転機を求めてのパリ旅行を素材とした「屋根裏の椅子」、
男と女の後姿に、あるが儘の人生を見る客観小説「牡蠣」等。
名作『放浪記』を力に、作家はいかに飛躍をとげたか。

風琴と魚の町=風琴とはアコーデオンのことで、今使われているものほど大きくなく、かなり単純なもの。
その風琴をならしながら薬を売り歩く一家の物語。
辛くても人生を強くいきようとする姿。

放浪記
私は宿命的に放浪者である。
私は古里を持たない―一生に一度しか書けない進行形の“青春の書”

1918年尾道高女に入学。’22年卒業すると愛人を追って上京。
翌年婚約を破棄され、日記をつけることで傷心を慰めたが、これが『放浪記』の原形となった。
「私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物(ふともの)の行商人であった。
母は、九州の桜島の温泉宿の娘である」とつづく。
 この父と母が互いに流れ流れて下関で出会い、ブリキ屋の二階で林芙美子を生んだ。
ところが父が芸者を同居したので、母親は8歳の芙美子を連れて20歳も年下の別の男と一緒になった。
この養父が二人を連れて九州一円を行商しつづけた。毎晩が木賃宿の暮らしである。

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