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私の読書感想メモ

樋口 一葉(1872年5月2日(明治5年3月25日) - 1896年11月23日(明治29年))
戸籍名は奈津で、なつ、夏子とも呼ばれる。

東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の長屋で、樋口為之助(則義)、多喜の弟五子、
二女として生まれる。姉ふじ、兄に泉太郎、虎之助がおり、後に妹くにが生れた。
両親は甲斐国山梨郡(現在の山梨県甲州市)の農家出身で結婚を許されなかったため駆け落ちし江戸にでたという。
父は上京後1867年、同心株を買い、明治維新後には下級役人となる。

少女時代までは恵まれた家庭で、子供時代から読書を好み草双紙の類いを読む。
1881年、次兄虎之助が素行が修まらないために分籍。
下谷区御徒町へ移ったため、十一月に上野元黒門町の私立青海学校に転校。
高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まずに退学した。
一葉の家庭は転居が多く、短い生涯に12回の引っ越しをした。
16歳で、将来を期待された兄泉太郎を亡くし、父は事業に失敗して病死したため、
1890年(明治23)に17歳にして戸主として一家を担わなければならなくなる。
その後、本郷菊坂(東京都文京区)に移り母と妹と三人での針仕事や洗い張りをするなど苦しい生活を強いられる。
ただし一葉自身は労働に対する蔑視が強く、針仕事や洗い張りはもっぱら母や妹がこなしていたとも言われる。

同門の姉弟子である田辺花圃が小説『薮の鶯』で多額の原稿料を得たのを知り、小説を書こうと決意する。
東京朝日新聞小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し、桃水は困窮した生活を送る一葉の面倒を見続ける。
次第に、一葉は桃水に恋慕の感情を持つようになる。
1896年4月頃から体に異常が起こり、8月に診断を受けたが絶望と診断された。
結局11月23日に肺結核のため25歳で死去。14か月という短い作家生活であった。

たけくらべ

勝気な少女美登利はゆくゆくは遊女になる運命をもつ少女である。
対して龍華寺僧侶の息子信如は、俗物的な父を恥じる内向的な少年である。
美登利と信如は同じ学校に通っているが、あることがきっかけでお互い話し掛けられなくなってしまう。

当時吉原の遊郭は、鳶の頭の子長吉を中心とした集団と、金貸しの子正太郎を中心とした集団に分かれ、対立していた。
夏祭りの日、長吉ら横町組の集団は、横町に住みながら表町組に入っている三五郎を正太郎の代わりに暴行する。
美登利はこれに怒るが、長吉に罵倒され屈辱を受ける。

ある日、信如が美登利の家の前を通りかかったとき下駄の鼻緒を切ってしまう。
美登利は信如と気づかずに近付くが、これに気づくと、恥じらいながらも端切れを信如に向かって投げる。
だが信如はこれを受け取らず去って行く。美登利は悲しむが、やがて信如が僧侶の学校に入ることを聞く。
その後美登利は寂しい毎日を送るが、ある朝水仙が家の窓に差し込まれているのを見て懐かしく思う。
この日信如は僧侶の学校に入った。

にごりえ

丸山福山町の銘酒屋街に住むお力。お力は客の結城朝之助を愛したが、それ以前に馴染みの客源七がいた。
ある日朝之助が店にやって来た。お力は酒に酔って身の上話を始めるが、朝之助はお力に出世を望むなと言う。
一方源七はお力に入れ込んでしまっており、ついには妻子とも別れる。
お力は源七の刃によって、無理とも合意とも知らない無理心中の片割れとなって死ぬ。

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