私の小さな旅、トップに戻ります 私の読書メモに戻ります

プラウザの「←戻るボタン」で戻り下さい

私の読書感想メモ

新井貴美夫著  「歴史に選ばれた366人」

私の興味のある内容だけを抜粋しました。

木戸 孝允

 1877年5月26日死去・(1877)年の西南戦争には、京都の行在所にあって事変処理に当ったが、健康がすぐれず「西郷よ、いいかげんにしないか」といい残して、京都で病死した。歳45。

徳川 昭武 1867年1月11日。水戸藩主徳川昭武・パリ万博を始めてみた人
双葉山 定次 小指と左目の失明にもかかわらず69連勝・「ワレ・イマダ、モッケイ、ナラズ」
モッケイとは木で作られた鶏のこと。
梅原 竜三郎 1986年1月16日・洋画家の巨匠・「葬式の類は一切無用のこと・・・生者は死者のためにわずらわさるべきものにあらず」
菅原 道真 「東風吹かば 香いおこせよ 梅の花 
主なしとて 春を忘るな]
足利 義政 室町幕府八代将軍で銀閣寺建立にとりかかったが完成をみないで54歳で死。
「何事も 夢まぼろしと 思い知る
身には憂いも 喜びもなし」
坂田 三吉 1870年堺市に生まれ、家は貧しく学校にも行けず、自分の名前さえも書けなかった。将棋には異常な才能を示す。
東京の関根金次郎と対戦−
「わいの銀が泣いちょるわい」と絶叫。
北条 早雲 60歳になってから88歳で死去するまで伊豆・相模全域を制圧する。が・他の戦国武将とは異なる。
「住民には真実のみを伝え、政策的な嘘はいうな」「上にたつものこそ努力せよ」
徳川 家康 19歳から58歳まで戦争にあけくれ、50数回も出陣している。が・どちらというと負け戦が多かった。危機的な敗戦は武田信玄と戦った三方が原の戦いと、大阪夏の陣のおいての真田幸村に決死の攻撃をうけたときである。
人生訓「人の一生は、重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし」
山本 周五郎 明治36年に生まれたから本名は三十六(清水さとむ)山梨から横浜に奉公にあがったお店の名前が山本周五郎商店。
「足軽がなすべきものはりっぱな足軽になることであり、上位の士になることではない」
「文学賞とは、数多くの読者から評価をうけるものである」とあらゆる賞を拒絶した。周五郎はかねがね「この世をさるときは、雪深い山の中で一人で死んでいきたいともらし・最後の言葉は「山へ・・」
  西 行 1190年2月16日・自然界での歌詠みの名手と賞賛された西行は。河内の葛城山・弘川寺で72歳で死去。平安末期における武士だったが、朝廷内部のみにくい争いなどに失望して、23歳で出家・26歳頃から旅にでるようになった。「ねがわくは 花のもとにて 春死なん そのきさらぎの望月のころ」
石川 達三 日中戦争が始まるや、石川は「殺人という極限の非行が、公然と奨励される戦場において、個人としての人間が、どのような姿を示すのか」という一点に、作家としての異常な関心を持つ。有罪判決をうける。
「人生は夢の如し」というが、私には長すぎたような気がする}が最後の言葉で80歳。
千  利休 1591年2月28日・70歳で利休は切腹した。利休が何故ゆえに切腹したのかは謎につつまれている。木造をたてたのが理由なら大徳寺の古渓和尚が死罪を免れ・利休の首が、切腹後、聚楽第の戻り橋で、長時間獄門にさらされていた。「人世七十 力圍希咄(カーッ、トーッ)吾這宝剣 祖仏と共に殺す 堤ぐる我が得具足の1つ太刀 今この時ぞ天に抛」。利休と秀吉の付き合いは30年に及ぶ。
杉田 玄白 1771年3月4日・蘭学者・蘭方医の玄白は、江戸・千住の小堀原において刑死した罪人の腑分け(解剖)をみて、死体解剖による結果と、書物に記されているものが余りにも一致してるのに驚き、3年半かけて「解体新書」を作る。「養生七不可@昨日のことは後悔せすA明日のことは心配せず、B過度の飲食はつつしみC薬の乱用はさけDつとめて運動に心がけE怠惰に流れることなくF女性との付き合いはほどほどに。「医事は自然に如かず」の名言。84歳の自然死まで歩いて往診にでかけていた。
 勝 海舟 「江戸城無血開城」の後・伯爵となり76歳の天寿。1899年、不意に体に異常を訴え・ブランデ−を一口飲みながら「これでおしまいだ」とつぶやくと、そのまま意識を失い、不帰の人になる。
黒田如水 1604年3月20日・豊臣秀吉が最も信頼し・また最も警戒していた黒田如水。秀吉は大阪城から眼下をみながら「一番多いものは人でしょう。また一番少ないのも人でしょう」と答えた。秀吉は側近のものに余の死後・天下をねらうものは誰か」と聞き、いろんな名前があがったけれども「それは菅兵衛よ」と答えたのを聞いて家督の長政にゆずり隠居した。
平 時子 1185年3月24日・時子は清盛との間に、重盛・宗盛・知盛・徳子を産んだ。壇ノ浦で平家最後の地と覚悟を決めていた時子は、孫にあたる8歳になった安徳天皇を胸に抱き「浪の下にも都のさぶろうぞ」と身を投げたが、源氏に救出され、京都・寂光院で余生を過ごす。
吉田 松陰 長州藩。自らの家に私塾を開き、世界の情勢や日本の対応について松陰の見解をのべ、塾生達を啓蒙した−松下村塾。
安政の大獄で処刑・
「身はたとえ、武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂 」  30歳で斬首
野上弥生子 1985年3月30日・満100歳にわずか37日を残して作家の弥生子は天寿を任う。「私はまだまだ書きますわ」
板垣 退助 1882年、自由党総裁板垣退助は、全国各地を遊説中・岐阜において暴漢に襲われる。その瞬間「板垣死すとも自由は死なず」と叫んだという。
伊藤 整一 1945年4月7日世界最大の超大型戦艦大和は、1千機を超えるアメリカ航空機との間に、3時間にわたって死闘を展開したが
、力尽きて坊の岬の南方海中に沈没。伊藤整一(中将)提督の信条は
「勇戦するとも徒死するな」にあった。そして大和とともに海底にその身を没した。
中谷宇吉郎 1962年4月11日、雪・氷・雷などの物理学者は「誰にでも良くしてあげるのだよ」と小声でつぶやいたのが最後の言葉。東京帝国大学では理学部に学び・また自然現象にたいする研究を寺田寅彦に学んだ。「雪の結晶」に関する研究では世界でも権威者
五味 康祐 1980年4月1日死去・「喪人」は芥川賞を受賞し、流行作家になったが、浪費家でもあり、金には縁がなかった。五味は手相見を得意としていたが、死ぬ2年前・自分の手相を眺めて「ガンの相」が出ているといって長時間眺めていたという。事実肺がんで58歳で死去。
弘田 弘毅 15年戦争のすべての責任はA級戦犯の指導のもとに行われたとして絞首刑となった7名のうち6名は軍人であったが後の一人は弘田弘毅元首相であった。死刑執行の日、東条英機以下の軍人が「天皇陛下万歳」を唱えていたのを聞き、かたわらにいた花山教懺師に「バンザイをやりましたね」と語りかけたのが最後の言葉。
  鑑 真 「われもし亡ぜんときには願わくは 座して死なん」との形どおりにまた死後体温は残り、3日後火葬にしたときは、いいしれぬ香気が周囲に充満したという。玄宗皇帝の733年には授戒の大師として最高の地位にいた。日本にいくことを決意したが、5回の失敗の後・11年目に奈良についたが鑑真も盲目になっていたが、日本の仏教文化は大きく前進した。
植村 直己 明治大学に入学し、いつしか「山男」の魅力にとりつかれていった。巨峰に挑むときにはかなりの人々の協力が必要になるが
どうしても人間関係のトラブルがでることを知り、自分ひとりで行うべきだと単独で行動し。「冒険家ウエムラ」は広く世界に知られることになった。「つねに飢えと寒さと寂しさ」に震えていたという。43歳になったばかりの植村が遭難したが、このニュ−スを聞いた83歳の父は「世間に何も貢献しない息子のため、世間の人々が寄せてくれた大きな尊敬と好意に対して、息子になりかわってお礼を申し上げたい」と頭をさげた。
犬養 毅(木堂) 1932年5月15日、首相官邸の食堂でくつろいでいた犬養 毅を先頭にたった三上卓中将がピストルでうつ。「まぁ待て。話せばわかる」と制したがその夜息を引き取る。ジャ−ナリスト出身の清廉潔白な政治家であった。しかも官僚や軍閥の横領に対しては毅然として対し、国民を主体として考えた
北村 透谷 1894年、5月16日。月の明るい夜であった。透谷は愛妻のミナ子の寝静まった後、葉桜の枝に帯をかけ、あたかもブランコに揺れるが如くにして26歳で命をたつ。父快蔵は、当時唯一の官立大学であった昌平学校を優秀な成績で卒業したにもかかわらず
小田原藩士の出であるから低い官位に甘んじなければならなかった。
伊達 政宗 1636年5月24日、奥州仙台62万石の伊達政宗は夜明けとともに、病床に正座して西方へむかいしばしの間、正座していたという。やがて床に入ると余が死後の肖像には、必ず両眼をそなえよ」と言い残すと息をひきとった。政宗の容態の変化を聞いて三代将軍自ら政宗を見舞ったことは異例なことだった。家光の帰ったあと「畳の上で死ねるとは思わなかった」と述懐する。
在原 業平 880年5月28日。歌人というよりは日本一の美男子として今も名をとどめている在原 業平は56歳の人生に終止符をうつ。
「つひにいく 道とはかねて ききしかで 昨日今日とは 思わざり日を」
近藤 勇 明治維新前夜、新撰組は幕軍として薩長土肥の連合軍に追われ、それそれに散っていった。
近藤は
「義をとり、生を捨つる」の辞世の詩を残し、35歳刑場の露と消えた。
浜口 雄幸 1930年11月東京駅のホ−ムで右翼の糾弾をあびた。浜口 雄幸は総理大臣になったが三度「男子の本懐である」といっている
1回目は組閣の大命を拝したとき・そして右翼の糾弾をあびたとき。そのときー急所をはずれていたために一命はとりとめたが
全冶しないまま病院から国会にでたために悪化して9ヶ月後に死亡するが辞世の言葉は「男子の本懐である」
朝永 降一郎 1979年7月8日二人目のノ−ベル物理学賞を受賞した朝永 降一郎はガン・73歳で死去。食道にモノがつかえるようになり、医者から放射線の治療を勧められる。「物理学とは何だろうか」という本を書いている途中でもあったので手術をうけるが完成は難しいと思ったのか、息子に「未完成交響楽もすばらしいが未完成著作も捨てたものではないと思うよ」と言い残す。
由井 正雪 1651年7月26日、駿河城下に入った、当時有名な軍学者であった由井 正雪らの一行は、役人茶町の「梅屋」に滞在していたところを幕府の役人達によって包囲される。幕府の転覆を企てたという罪状であった。「わがこと、終われり」と切腹する。
十返舎十九 1831年8月7日・江戸後期を代表する戯作者・十返舎十九は晩年になって手足が不自由になった。臨終が近づいた時・「自分の遺体はやじさん・きたさんのように五右衛門風呂で失敗するのはこりごりだから、湯灌はせずに、着物をきたまま棺おけに入れ、そのまま火葬にしてしまえ」辞世の句「この世をば どりゃお暇(おいとま)を 線香の煙と共に 灰さようなら」
三遊亭円朝 1900年8月11日・近代落語の祖と目されていた三遊亭円朝・トレポネ−マに犯され・晩年は進行性麻痺だった。円朝は「死死たるあとは熱さを感じぬゆえに火葬も可なれば、冷たさもわからぬ故土葬となすもよし」という遺言を残したので・弟子達はその埋葬の方法に迷ったという。
西郷千恵子 1866年8月25日・会津城下は、官軍を自称する薩長連合の武装した暴徒でいっぱいだった。篭城すれば女・子供は足でまといだと考えた家老・西郷頼母の妻・千恵子は率先して自害した。千恵子にならって232人も続く。辞世の句「なよたけの 風にまかする 身ながらも たわまね節は ありとこそ聞け。」
安藤 広重 1858年9月6日江戸後期の代表的浮世絵師・安藤広重は「東路の筆を残して旅の空 西のお国の 名どころを見ん」という辞世の句を残して61歳の生涯を終える。
吉川 栄治 1962年9月7日・吉川 栄治は酸素テントのビニ−ル膜の中で、あえぐような息を2・3度したのち息をひきとる。肺ガンだった。横浜で生まれ家は貧しかった。すぐに肺ガンの手術の必要があったが「新・水滸伝」の連載ものが残っており。これを急遽書き上げてから入院した。ちなみにその末尾には「余儀なくして、短章を終わる。読者諸氏の寛恕を乞う。」
東条 英機 1945年9月11日朝食をすませ、用賀の自宅でいたとき、そこへ逮捕状を持つ米軍MPが(憲兵)がきた。東条は「支度をするからしばらく待つように」といい、その間別室でピストル自殺をはかった。しかし急所ははずれ、米軍病院に運ばれ、一命はとりとめた。東条は太平洋戦争勃発時の総理大臣兼陸軍大臣であり「死すとも捕虜の辱めをうけるなかれ」と思想を強要。
1948年12月23日、A級戦犯として絞首台の露となる。
石田 三成 関が原の戦いは1600年9月15日、午前7時から始まって午後の2時には勝敗が決まる。合戦の破れ、三成・小西行長・安国寺の3人がとわられた。そのときの衣服が乱れていたので3人に対して「上様からの御慈悲でござる」と小袖が送られた。三成は他の二人とは違って「上様とは誰か」と聞き、それが家康だと知ると「自分にとって上様とは秀頼公おひとりである。家康が上様とは笑止千万である」と拒絶した。
若山 牧水 1928年9月17日「愛と詩と酒」に生きた歌人・若山牧水は43歳だったが、愛妻の若山貴志子が筆にふくませた「酒」を口内に入れながら、この世を去った。牧水の危篤を聞いてきた人たちにも「もっとビ−ルを!」と言った。園田小枝との不倫で悩んでいたころの歌・「白鳥は哀しからずや 空の青 海の青にも 染まずただよふ」
安田善次郎 1921年9月28日・安田財閥の創始者である安田善次郎は大磯の別荘でカザマなるものに、短刀で眉間をつかれ・さらに首筋を切られて絶命。犯人はその場で自殺したが安田善次郎が巨額の富を持ってることに対する抗議だった。善次郎は富山で生まれ「太閤記」を読んで「安田屋」を開業。善次郎は「援助や寄付は人間をダメにするという信念」を持っていた。だが東京帝国大学が講堂を建設するにあたり財界人が非協力だったので一人で寄付したために「安田講堂」とつけられた。
山口 良忠 1947年10月11日東京地方裁判所山口 良忠が栄養失調が原因で死亡。昭和21年には「米よこせデモ」が発生。食糧の生産者は、食糧の供出を拒み、ヤミ米を公然と売った。山口 良忠は法を守る立場から口にしなかったために34歳で餓死・遺書には「ソクラテスが悪法と知りつつも、法を守る精神こそ自らの生命以上に大切であるとして従容として刑に服した故事を引用し、悪法もまた法なりの精神に従って餓死を覚悟している」と書かれてあった。
 山頭火 1940年10月11日・山頭火は57歳で放浪流転の人生を終えた。種田山頭火は資産家の家に生まれたが、父の道楽で家は倒産し、母と弟は自殺する。早稲田大学に在学中・倒産にあい、故郷の山口県に戻ったが自暴自棄になり、泥酔して列車にひかれるところを奇跡的に助かって以来、出家する。「生死の中の 雪ふりしきる」の句を残して托鉢の旅に出る。
1940年・近代俳句の正岡子規の故郷・松山にたどり着き・庵を提供してもらう。
松尾 芭蕉 1694年10月12日、大阪御堂筋の花屋方で51歳の生涯を終えた。「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」は辞世の句。
芭蕉は伊賀上野に生まれ、藩主藤堂良忠の小姓として仕えていた。良忠は衆道に興味をもち、世継ぎが出生しないことから奥方の要望で京都から江戸にでて俳諧の道に入る。芭蕉が生涯、恋の句や女性に興味を持たず「わび。さびの境地を開拓したのはこのことが原因だという説もある。
二宮 尊徳 1856年10月20日日光東照宮領の荒地開発を行うべき日光今市に住居を構えたが、高齢に加え、疲労がたたり
69歳で死亡。死出に旅立ち「葬るには分をこえてはならね。墓や碑を建てる必要はない。ただ土をもり、できればその側に一本でも良いから松か杉の木を植えてくれればいい」と語った。小田原の貧農の子としてうまれ、勉学のかたわら開拓を行うなどして成功させる。金次郎が健康を害してるときでも決して駕籠にのらなかったのは、土地をしることができないからであった。
中原 中也 1937年10月22日深夜・30歳の中也は鎌倉の養生院で結核性脳膜炎で死去。京都で遊学中・年上の女優・長谷川泰子と同棲し、手をたずさえて東京に行く。やがて小林秀雄に長谷川泰子を奪われる。やがて上の孝子と結婚し・長男が生まれたが結核性脳膜炎で失う。遺作は「おまえはもう 静かな部屋に帰るがいい。 煥発する都会の夜夜の燈火の後に おまえはもう、都会の道を辿るが良い。 そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。」
詩人は文学者の頂点にあり とランクをつける。
滝沢 馬琴 1848年11月6日の・江戸時代を代表する小説家の滝沢 馬琴は発病したときに家族が医者を呼ぼうとしたら「若い者ならいざ知らず、無に生きる自分にはもう医者は不要である」と断り、それから1ヶ月もたたないうちに81歳で死去。
1833年ごろより右目の視力が衰え・やがて両目とも失明するなか「南総里美八犬伝」を完成させた。
辞世の句「世の中の やくを逃れて もとのまま かえすは天と 土の人形」
三島由紀夫 1970年11月25日・作家の三島由紀夫は自ら組織した「盾の会」の幹部4人を従えて、陸上自衛隊市谷駐屯地本部を訪れ自衛隊員全員を前庭に集合させた。「今こそ事実をもって,生命尊重以上の価値の存在を諸君にみせてやる。ー天皇陛下万歳!」と叫び自ら切腹して果てた。辞世の句「散るをいとう 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 咲く小夜嵐」
沢庵和尚 1645年12月11日・たくわん漬で有名になった沢庵和尚は、江戸品川の東海時において入滅・瞑想していた沢庵は突如として目を開き「夢」と書き残した−72歳だった。
中江 兆民 1901年12月13日「東洋のルソ−」と呼ばれた、明治の自由民権運動のリ−ダ−であった中江兆民も喉頭がんには勝てず、54歳の戦いにあけくれた生涯に終止符をうった。喉頭がんにかかったときに「医者に後何日に命か?」と問うたら、医者は気休めに「1年半ていど」と答えた。「1年半をもって短というなれば、百年もまた短なり」
近衛 文麿 1945年12月16日・公爵近衛 文麿は一通の遺書を残して服毒自殺をとげた。連合国総司令部が近衛を戦犯の一人として指名したのは10日ほど前のことであった。白州次郎から内々で情報を得ていた近衛は自らの進退について苦渋していた。
近衛の遺書は「戦争に伴う昂奮と激情と、勝てる者の行き過ぎた増長と、敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と、誤解に基ずく、流行蜚語のうずまく中における、正しい裁判など期待しうべくもない。世論がやがて冷静を取り戻し、正常の状態に復したときこそ、自らの神の法廷に立ちて、正義の判決を下されるのを待つ」
与謝蕪村 1782年12月25日・日本最大の庶民文学の俳句を、芭蕉から引継ぎ、子規へとバトンタッチを行った与謝蕪村は京都室町綾小路の自宅で68歳で死去。その前夜・弟子の村松呉春がそれとなく辞世の句を尋ねたら「初春」と題して 「しら梅に 明くる夜よとばかりに なりにけり」
山田 耕筰 1956年12月29日・日本の洋楽界の草分けとして心筋梗塞で79歳で死去。生前・山田は「人間は生まれた時は裸であった。したがって死ぬときも、一糸まとわぬ清浄な裸身のままで墓に入れば何もいうことはない。死者に対する別れは、心から親しい者のみが集まって一夜を語り明かし、翌日には個人の骨と灰を住み慣れた庭の片隅に埋めて、静かに葬られること」を願っていた。が、現実の葬式は盛大に行われ・子供達は姿をみせなかった。父・山田の生前における数多くの女性問題に対して、子供としての抵抗だとも言われている。

私の小さな旅、トップに戻ります 私の読書メモに戻ります