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私の読書感想メモ

井伏 鱒二 (著) 黒い雨
改版 版 (1970/06)

内容(「BOOK」データベースより)
一瞬の閃光とともに焦土と化したヒロシマ。不安な日々をおくる閑間重松とその家族…
彼らの被爆日記をもとに描かれた悲劇の実相。原爆をとらえ得た世界最初の文学的名作。
--このテキストは、単行本版に関連付けられています。
内容(「MARC」データベースより)
ピカドンによる肉体・精神の苦悶と悲しみ。重松の被爆日記、閑間夫人の戦時中の食糧雑記、岩竹医師の被爆日記、
岩竹夫人の看護日記他をもとに、悲劇の実相を日常生活の場で淡々と描く、世界文学史上不朽の名作。新装版。*

重松静馬(作中には主人公閑間重松として登場)の克明な原爆体験手記や自ら集めた広島の人々の体験談などをもとに書いた長編で、昭和41(1966)年に発表された。
 広島市で被爆し、黒い雨をあびた主人公と姪が備後の山間の村に帰り、姪に原爆症の兆候が現れるまでが、被爆者への温かいまなざしをもって描かれる。原爆投下直後の悲惨な状況のみならず、その後の平穏な日常をも脅かす原爆の恐ろしさに迫ったと高く評価され、野間文芸賞を受賞した。映画化もされ、戦争文学の最高傑作とする人も多い。「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早くすみさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも、不正義の平和の方がいい」。三和町の文学碑には作品の一節が刻まれている。
 鱒二は現在は福山市に合併されている加茂村粟根に明治31(1898)年に生まれた。生涯生家付近の風物や自然に愛情を注いだのみならず、作品の中に郷里の人々を数多く登場させている。『朽助のゐる谷間』や『丹下氏邸』などがその代表例だ。生家の近くには鱒二が子どものころから大好きだった石地蔵なども残され、当時の面影をしのぶことができる。酒を愛した鱒二にふさわしい詩編『勸酒』を刻んだ文学碑も置かれ、毎年命日の7月10日には「鱒二忌」も開かれる。
矢須子が縁遠いのは原爆症の噂のためなので、重松は見合い話がきたとき、相手を納得させるために診断書を添えた。それがかえってやぶへびになり、仲人から原爆投下時の矢須子の足取りを教えてほしいと依頼されてしまう。そこでやむなく矢須子の日記を見せようと決断し、加えて自分の被爆日記も見せる気になっていく。そこで妻のシゲ子の助けをかりて清書をはじめた。物語はこの清書の書き進みとともに進んでいく。
矢須子は叔父たちと歩いている間に「黒い雨に打たれたりして、手傷を受けたりして発病してゆく
重松は一人つぶやく。「今、もし、向こうの山に虹が出たら奇蹟が起る。白い虹でなく、五彩の虹が出たら」。
井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年2月15日 - 1993年7月10日)は日本の小説家。広島県深安郡加茂村(現在の福山市加茂町)生れ。本名、満寿二。筆名は釣り好きだったことによる。広島県立福山中学校卒。

5歳の時に父を失う。中学時代に画家を志し、卒業時に橋本関雪に入門を求めたが、かなわず帰郷。早稲田大学文学部に進み、青木南八と親交を結ぶ。のち、大学を転々とし、同人誌「世紀」に参加、『幽閉』を発表した。

1929年、『朽助のいる谷間』や、『山椒魚』(『幽閉』改作)などで文壇入り。初期の作品には、ほどよいユーモアがあふれていて、それが、本来芥川賞を受賞するような経歴であるにもかかわらず、1938年に『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞を受賞することにつながった。


山椒魚(さんしょううお)
原題は1923年に発表した「幽閉」。改作し1939年「文芸都市」に発表。

岩屋から出られなくなってしまった山椒魚を描く。滑稽さの中にある悲哀が光る処女作。
1985年、自選全集に収録する際、作者が終結部を削除し話題を呼んだ。

うっかりして棲家の岩屋から出られなくなった山椒魚は、穴の外の景色を眺めて暇をつぶすが、自由を奪われたと知り悲歎にくれる。
あるとき岩屋に迷い込んだ蛙を見て嘲り、言い争いになるが、もはや岩屋から出るのはあきらめるしかなかった。