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私の読書感想メモ


島 武郎
1878年 (明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)
東京小石川〈現・文京区)に旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の子として生まれる。横浜に移り、4歳から横浜英和学校(現横浜英和女学院)に通う。
このころの体験が後に童話『一房の葡萄』を生むことになる。

10歳で学習院予備科に入学し、19歳で学習院中等全科を卒業。その後、札幌農学校に入学。
内村鑑三や森本厚吉の影響などもあり、1901年にキリスト教に入信する。
農業学校卒業後に軍隊生活を送り、その後渡米。
さらにヨーロッパにも渡り、1907年帰国。このころ信仰への疑問を持ち、キリスト教から離れる。

帰国後はふたたび予備見習士官や大学の英語講師として過ごしていたが、弟の生馬を通じて志賀直哉、武者小路実篤らと出会い同人誌『白樺』に参加。
1916年に妻と父を亡くすと、本格的に作家生活に入り、『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『迷路』を書き、1919年には『或る女』を発表した。

しかし創作力に衰えが見え始め、『星座』を途中で筆を絶つ。1922年、『宣言一つ』を発表し、北海道狩太村の有島農場を開放。
1923年6月、婦人公論記者で人妻であった波多野秋子と軽井沢の別荘(浄月荘)で心中。7月7日に発見されるが、
梅雨の時期に一ヶ月以上遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認できたほどだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B3%B6%E6%AD%A6%E9%83%8E



小さき者よ。
不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ」―妻の死から一年半足らず一気に書き上げた短篇。
一方、芸術か生活か青年の懊悩を描いた中篇は、北海道の自然の絵画的描写と海洋小説の趣でも知られる。

「小さき者よ.不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ」.
妻の死後一年余,一気に書いた短篇.芸術か生活か,青年の懊悩と北海の自然を描く


或る女
有島武郎 岩波書店 1998/11出版
詩人木部との恋愛結婚に破れた葉子は,在米の許婚のもとへゆくために太平洋航路の人となったが,
船の事務長倉地と親しくなり,かの地を踏まずに帰国する.
しかも倉地との愛欲生活に健康を害して痛恨の思いを残しながら死んでゆく.
目ざめかけた勝気で鋭敏な葉子はなぜ社会から葬られねばならなかったか…….


一房の葡萄 
岩波書店 (1988-12出版)
有島武郎が生前に残した創作集は『一房の葡萄』ただ一冊である。
挿絵と装丁を自ら手がけ、早く母を失った3人の愛児への献辞とともに表題作ほか3篇の童話が収めてある。
童話とはいうものの、人生の真実が明暗ともに容赦なく書きこまれており、有島ならではの作となっている。


カインの末裔
岩波書店 1980/05出版
北海道の荒野から生まれた野性そのままの農民仁右衛門.有島は西欧の宗教や思想とかかわりない主人公を題材としながら,
まさにカインの末裔――神に追われた放浪者――を強力な筆致で作品化した.
さらにキリストに嫁ぐ聖処女の内面を描く『クララの出家』.カインの末裔もクララも作者自身といわれる.

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