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私の読書感想メモ


池田 大作 (著) 「第三の人生」を語る―高齢社会を考える



内容(「BOOK」データベースより)
「長寿の秘訣」「高齢者の健康」「介護のあり方」など
身近なテーマについて、仏法のヒューマニズムの視点から探求。「人生八十年時代」を迎え、「第三の人生」をどう実り豊かなものにしていくか
―大満足の人生を送るための「必読の書」。

内容(「MARC」データベースより)
「人生八十年時代」を迎え、「第三の人生」をどう実り豊かなものにしていくか-。長寿の秘訣・介護のあり方など、身近なテーマについて仏法のヒューマニズムから探究した、大満足の人生を送るための本。
第1章 人生に定年はない−つねにこれから
戸田先生 人生は最終が大事、最後の数年間が幸せであれば人生は幸福である。
ダ・ヴィンチ 充実した生命は長い
充実した日々は いい眠りを与える
充実した生命は 静寂な死を与える
トインビ−博士 「さぁ仕事を始めよう」
老いについて 自分の心をどの方向に向けていくのか。
老いを単に死に至るまでの衰えの時期とみるのか。
それとも人生の完成へ向っての総仕上げとみるのか。
下り坂・上り坂とみるのか−同じ時間を過ごしても、人生の豊かは
天と地の違いがある。
”長生きしてより長く人々のために働いていこう”こういう大目的に生きるなかでしか本当の人生の醍醐味は味わえない。
第3章 長寿社会を生きる知恵
「老い」はかけがえのない財産
ボケを防ぐには
手足を使う・人に会う・声を出す
父と母からの贈り物 ”第三の人生”は”第三の青春”
青春は年とともに消え去っていくものではない。自分がどう思うかです。
いくつになっても前向きの挑戦の心がある限り、ますます深みをます。
亡き人の生き方が、残った人を包む
親子の絆は強い。親がどう生きたかは子供に深く刻まれる。
「第三の人生」の重要課題はいかに最後まで自分らしい生き方を貫き
周囲に示しきっていけるか。
皆様が長寿であることが仏法の証明。
生きていきて生き抜くことが信仰である。
・幸・不幸を決めるのは自分の心
健康 健康は智慧です。智慧で勝ち取るものです。
老いを漫然と受け入れるのではなく、積極的に老いと向き合う。
何を食べ、どんな生活を送るのか。
決めるのは自分自身です。病気を治すことよりも、病気を防ぐことが第一の健康法です。
自分中心 アメリカ・セリグマン博士
「自分中心の人は悲観主義に陥る。」と指摘。
孤独も悲哀もある。人間だもの。だからこそその心の奥底を深く見つめ
自分自身が画家となり、芸術家となってわが心を「希望」の色に塗り替えていくのです。
自分中心−つまり心を師としている限り悩みは尽きない。
そうではなく、心の師となって、自分の一念を、明るいほうへ、楽しくなるほうへと
向け、周囲もその方向に向ける
介護−老いて寝たきりや痴呆になった時こそ、それまでの生き方が表れる。
痴呆−なってからどうするか−家族も試される
80歳まで生きてくれば、どこかに欠陥が生じないほうが不思議なんです。
どんな機械だって使っていけば故障するでしょう。
ましてや人間です・ロボットではないのです。
家族や周囲の人々にとっても試される時です。
本人の人間らしい「尊厳ある生活」を守り、支えていけるか。
そこからが信心の勝負です。
痴呆にも特別な祈りはありません。高齢者と接して、老いの苦しみと同苦していく中で
1ミリでも自分の人生が深くなったといえれば、それが勝利なのです。
境涯が広がったということです。
痴呆になって脳が病んでも「心」の働きは生きている。
「心」に向って語りかけるのです。
「心」は必ず伝わっていきます。それを確信して、介護する側が優しい、尊敬の心で接していくことで。
釈尊「仏に仕えるならば病者を看病せよ」
長寿社会は、物の豊かさよりも心の豊かさが求められる。
自分が「してもらう」のではなく、わずかでもいい、「自分には何ができるのか」を考える時代。
いくつになってもわが身を律しながら貢献の道を探っていく。
病院・施設に入ったとしても、家族の愛情が大事。
・親子一体の成仏。また現在・過去・未来の視点にたった時に
介護の意味を一段と深くとらえられるのではないか。
嵐にも負けず、風にも負けず、そして何よりも自分に負けずに、来る年もくる年も
自分らしく満開の花を咲かせていく−

池田大作語録 人生の座標
グラフ社 (2001-10-02出版)
希望の語らい―人間関係についての考察
心の輝きのために―哲学についての考察
優しさと強さ―生命の不可思議についての考察
次代を担う人と共に―青春についての考察
苦に徹すれば珠と成る―信念についての考察
負けない勇気―楽観主義についての考察
励ましは「万の力」―友情についての考察
「女性の世紀」の太陽―母の心についての考察
「教育のための社会」へ―幸福の礎についての考察
精神の大航海―読書についての考察
創造と交流の喜び
人生の黄金の秋
人間共和の未来を

人を羨んでも自分がみじめになるだけで進歩はない。
そういう感情に負けてはいけない。要するに「人を嫉む」よりも「嫉まれる」ほうがずっとよいのではないだろうか
本当に良いものを見抜く力は一流と接してこそ養われる。
美しい、素晴らしいと感じる素直な心が重ねあって、感性が磨かれていく。
何があっても朗らかに、良い方へ、良い方へと前向きにとらえていく。
楽天的に生きていくーそうした生き方は簡単なようでいて、実は難しい。
かなりの覚悟に裏打ちされた内面の強さが要求される。
強くなければ、いつも変わらぬ笑顔でいられないにちがいない。
いつも心を「太陽」にむけて生きよう。困ったことも笑いで吹き飛ばそうー
そうした前向きの朗らかな一年が人生を変えていく。
人生は「これ以上は無理だ」とあきらめる自分、「もうこれくらいでいいだろう」と妥協しそうになる自分との戦いである。
「断じてあきらめない」「断じて負けない」と自己との闘争に勝ちゆくことだ。
「一日を一週間に!」という決意を毎日の習慣にしていくならば、百年たらずの人生でも「何百年分の価値」をつくる。
芸術の世界でも、スポーツでも、企業でも、トップに立つ人は「努力!努力!」である。
努力はウソをつかない。苦しんで努力して真剣に戦いぬいた人が勝つ。
これが人生の鉄側であり、道理である。
人生は挑戦です。挑戦しないと人格はできない。自分を鍛えるのは自分です。自分を大きくするのは自分の努力です。
日常はささいなことの連続かも知れない。しかし一瞬、一瞬の微妙な心のもちかたによって、幸・不幸は大きく左右される。
「楽観主義で往きよう」と決めれば、逆行にも苦難にも、人生のドラマを悠々と乗り越えることができる
絶対に君には君にしかできない、この世の使命がある。あなたにはあなたにしか咲かされない人生がある。
何を疑ったとしても、このことだけは疑ってはならない
幸福の第一条件は「充実」であろう。本来、人間は自分に挑戦してるときは伸び続ける。
他人と比較し始めると、成長がとまる場合がある。何か一つでも、自分が打ちこめるものをもっているならば
例えば、それが仕事でも、ボランティアでも、習い事でも、それはおのずから自分の心の大地を耕し、育てることになる。
具体的な労力の手ごたえのなかでこそ、充実も感じられる。
「心こそ大切」です。どこまでも弱く、移ろいやすく、醜いのも人間の心。
しかし、どこまでも強く、揺るがず、崇高になれるのもまた人間の心なのです。
幸・不幸の決め手は心の世界が豊かであるかどうか。生きてる限り、より良い自分を求めて進歩したいものだ。
幸福は自分自身の勝利である。自分で勝ち取るものだ。
目に見えない「心」が、目に見える「姿」となって現れる。それが人生である。
”心ばえ”の違いや、歩んできた人生に、年とともに顔に現れてくるものだ。
人の長所を観察したほうが自分が得です。人の欠点をあげつらなっても得るところがない。
そういう大きな心になるには、少しずつでいい、友人の幸福を祈る。だんだんと包容力のある自分に変わっていきます。
自分が強くなった分だけしか幸福はない。「優しい人」といっても、本当の優しさは強くなければ貫けない。
薄っぺらな人間だけにはなって欲しくない。人を外見だけで決めつめるような人間だけにはなって欲しくない。
大きな人間になってもらいたい。
「あと5分頑張る」ことが大事です。もうやめようかな、遊びたいな、と思うときに「あと5分」頑張る。
5分間、余計に努力した人が偉大なんです。この人が勝つ。これが人生なんです。
一生を何に捧げるのか。それによって人生の価値も深さも決まる。人生は厳しい。
その人の真実は、そのまま人生の最終章に結晶されるものである。
がまかしはきかない。善も悪も、正も邪も、人間の晩年は鏡のごとく、その人の生涯の奇跡を映し出す。
執念をもって、目標へ突き進んで欲しい。中途半端はいけない。執念をもってやった場合には、かりに失敗しても悔いがない。
成功すれば大きな花が咲く。いずれにせよ、次の道につながっていく。
「人に尽くそう」と決め、勇気を出して「行動」を開始したとき、もっと強い自分になれる。
人間としての器がもっと大きくなる。多くの大人は、その勇気を、もう失っている。年をとればとるほど小さく固まって
「自分を守る心」が強くなっていく。
正義などどうでもいいと言うのは気楽かもしれないが、その代わり、人生の本当に深さも、喜びも、充実も、向上も
何一つ味わえない。ただ動物のように欲望に流されていくだけの人生です。何と言うつまらない人生か。
人生はマラソンだ。初めのうちピリであったってかまわない。それで自分をあきらめて、走るのをやめたら、それこそ「終わり」です
今、夢のある人もない人も、とにかく走り続けることだ。一競技で負けたって何かに勝てば良い。
晩年が本当に満足した、本当に幸せだったということが、大切なのではないだろうか。
”わが人生を開く”ためには”わが境涯を開く”ことである。人間、いつも自分のことだけ考えていると、しだいに「小さな心」
「小さな自我」に固まってしまう。世の中、人のためという、開かれた、大きな目的に向って働けば、その一心の妙用によって
「大きな心」「大きな自我」が築かれていく。
死をどうとらえて、日々どう生きてゆくのか、いかに深き時間をいかに深き人生を生きるのかーこれこそ最大のテーマです。
健康は勝ち取っていくものです。何を食べ、どんな生活を送るのか。決めるのは自分自身です。
病気を治すことより、病気を防ぐことが第一の健康法なのです。
自分中心ーつまり心を師としてるかぎり、悩みは尽きない。そうではなく、心の師となって、自分の一念を明るいほうへ、
楽しくなるほうへと向け、周囲もその方向に向けていくことです
介護はその人生のフィナーレを演出する貴い仕事です。真心で尽くし、能力を引き出し、人格を最大に尊重する。
介護は「人生の聖業」といえる。
人生は最後の最後まで、何事かをなすためにある。高齢になって何事かを為すためにある。人生を自己の信じるものにかけて
戦いぬいた人、信念に殉じた人生ほど尊いものはない。高齢になって自分の人生に満足のいくものがあるかどうかは、自分の
胸中に刻印されている。他人が決めるのではない。それだけのものを残せるかどうかー高齢化社会の大きな課題です
たとえば一本の川があったとする。ある地点ではその川の幅は変わらない。同じように、その人自身というものは変わらない。
しかし「質」はさまざまである。浅いか深いか、濁っているか、清らかか、魚がたくさんいるかいないか。「内容」は違う
人生の世界も一緒です。どう生きたのかという「内容」によって決まっていく。
ともすれば、人間は年をとると「前進」の気概を失ってしまう。ここで一歩退くか、一歩踏み出すかは微妙な一念の差である。
しかしそれは「人生の総仕上げ」の段階にあっては取り返しのつかない違いになって表れてくる。
老いを単に死に至るまでの時期とみるのか、それとも人生の完成に向けての総仕上げのときととらえるのか。
老いを人生の下り坂とみるのか、上り坂とみるのかー同じ時間を過ごしても、人生の豊かさには天と地の違いがある。
「負けないこと。たとえ勝たなくても断じて負けないこと」−これは私の妻のモットーである。
負けない心があれば、いつかは必ず福徳の軌道へ進んでいける。ゆえに女性は環境に振り回されて中心軸を失うようなことが
あってはいけない。何があっても揺るがない、負けない自分自身を築くことが先決である。
人を包みゆくことです。大きな河のような自分になるのです。大きな海のような自分になるのです。
大きな大きな青空のような自分になれるのです。その「大きな心」から、大いなる友情のドラマは生まれてくるのです

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