北海道再生へ
新渡戸稲造
(1862)8月3日、5000円札の肖像で知られ、国連事務局次長や 東京女子大 初代学長などをつとめ「私は太平洋の架け橋になりたい」という言葉を遺した 新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)は 南部藩の盛岡で武士の家に生まれました。 9歳で叔父太田時敏を頼り上京,その後時敏の養子となる。 11歳で日本で一番レベルの高い東京外国語学校に入学。 明治天皇が青森三本木原を視察し、その開拓者である新渡戸家により「子々孫々農業に励めよ」の言葉を残したことから農業を専攻しょうという考えになる。 |
精神伝える展示室。 「貧しい両親を持った子供たちや労働者など、学校へ行けない子供たちの夜学校」との構想だった。 1894年(明治27年)1月から1944年の閉校までに卒業生は初等部、中等部合わせて約1170人。 校名の由来は遠い国から届いた遺産を役立てた事と、 論語の「友あり、遠方より来る、また楽しからずや」から遠友と付けられました。 「学問よりも実行」 新渡戸稲造・万里子(メアリー)夫妻の"愛と献身".校舎といっても小さなものでしたがだんだんと盛んになり忙しくかけもちをしていた新渡戸は脳神経衰弱症になる。 妻の健康もすぐれなかったために新渡戸夫妻は7年間働いた札幌を離れてカリフォルニァで療養することになりました。 |
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1877年、15歳で第二期生として札幌農学校に入学、「少年よ大志を抱け」の クラーク博士の教えを受けます。29歳で北海道の女子校北星学園の運営に関わり、同学園の命名者になった後、翌年内村鑑三らとともにキリスト教に入信します。 39歳のとき、後藤新平に招かれ、台湾で殖産局長兼製糖局長の任につき、新渡戸が着任したときは350キロに過ぎなかった製糖量が120万キロを超え、新渡戸の助言で台湾は砂糖の5大生産地として定着する。 新渡戸は1933年(昭和8年)夏バンクーバーを「太平洋会議」出席のため訪れていた時、腹痛を訴えビクトリア市内の病院に入院、10月15日20:35、急性 膵臓壊疽のため死去。71歳でした。遺体は当地で荼毘に付され帰国 現在東京の多麿霊園に眠ります。同じ霊園の中には札幌農学校の同窓生である 内村鑑三も眠っています。 |
リンカ−ンの言葉。 「何人にも悪意を抱かず、すべての人に慈愛をもって」 |
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札幌市勤労青少年ホ−ムの前に建つ顕彰碑。 新渡戸夫婦のレリ−フを青年が抱えるデザイン |
新渡戸は米国で結婚したメアリ−の実家から遺産として届いた千ドルを同学校設立につぎこんだ。「いつの日か神のために、札幌の為に何か役立つことができるよう祈り、望んでいます。」 |
(北海道百年物語より)