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    北海道の歴史


   北海道の名づけ親 松浦武四郎

松浦武四郎
(北海道庁HPより)
北海道はアイヌ語。
わが北海道の名付け親である。
明治政府は、明治2年8月に蝦夷地を北海道と呼び改めることにした。
松浦武四郎
818(文政元年) 2月6日一志郡須川村(現三雲町小野江)に裕福な農家の4男として生まれる。幼いころから伊勢神宮に参る人をみては「自分も旅したい」と思っていました。16歳の時・退塾し家族の反対をおしきって江戸へ行く。400キロの道のりを13日で歩く。江戸にて奉公するが家出してきたことがわかり解雇になる。
17歳で諸国を歩く。
「蝦夷地がロシアに狙われている」との話しを聞いて自らの費用で蝦夷地探検に乗り出す。22歳・初めて蝦夷地に渡り東西蝦夷地をめぐる
十年という長い北海道全域をその足で歩き回った武四郎は自ら調べたすべての情報をまとめた「蝦夷大概図」
この地図こそわが国で最初の北海道全図ですが、松前藩では「生意気で面白くない」といって地図を認めなかった。樺太・千島の分も加えて幕府に提出。
政府は新しい名称の選定を、武四郎にゆだねた。
この北海道の名称は、武四郎が提案した日高見道・北加伊道など6案から選ばれた。
武四郎の雅号のひとつ「北海道人」とも一致する。
武四郎の原案は「北加伊道」で蝦夷を「かい」とよむので、「加伊」に蝦夷の意味を残しておきたかったためとも言う。武四郎の説明によると「アイヌ民族は自分達の国をカイと呼び、またお互いをカイノ−と呼び合っていた」

彼の踏査は海岸から川筋の内陸部および、その記録は図も入り正確で詳細です。
それはアイヌ語が話せ、人並みはずれた体力のほか、その地に住むアイヌの人々との人間的なふれあいができたからこそです
1870(明治3年)53歳官職・位階を辞す
松前藩の圧力や政府のアイヌ融和政策に反発し、辞任する。
「開拓判官」を仰せつかったのは大久保利通と岩倉具視の推挙によるものだった。
吉田松蔭とは海防のことを談じ合うなど特に親しかった。
彼の出版した書物には、挿絵・詩文・解説などを多くの有名な知人が 関係しており、
アイヌの風俗画・アイヌの方達と共に生活しながら探検を続けた
★ 明治21年 1888年  東京神田の自宅で死去 71歳 死の前年まで全国歴遊はやめなかったという。

「旅には生きた学問があります。人が人を知らずしてなんで人の道をまっとうできましょうか」
17歳のときの言葉
 (北海道百年物語より)