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北海道の歴史

北海道の開拓その6





永倉(長倉)新八

1839年〜1915年

余生を北海道で送った
新撰組四天皇
永倉(長倉)新八
(写真はtantan様より)陣羽織
永倉が戦いの最中、着用した陣羽織がある。
その裏地に書かれた和歌は、文久三年の浪士隊参加に際して
両親に送ったものである。武士の節を尽して厭まても貫く竹乃心一筋

永倉(長倉)新八は(1839年)江戸の松前藩邸で生まれた。
幼き頃から剣術を好んだ栄治(新八)は、八歳にて修行に出され、十八歳で免許皆伝を得る腕前になった。

剣術に打込む最中、近藤勇と知り合った新八は勇の義気と合し、文久三年には近藤勇達と共に
将軍警護の浪士隊に参加。京に上洛して新選組を結成した。
新選組において永倉は、数え切れない程の働きを見せた。池田屋事件(近藤達と共に少数で突入した一人)。
禁門の変、幾多の戦いに参戦している。
新選組の江戸撤退後、体制を整えるために一時敵対した新撰組は最盛期の300名から44名に減っていた。
しかもその同士は江戸に到着するまでに散って残ったのはわづか27名でした。
江戸では140名の仲間を集めましたがまたもや敗退。
「近藤さん・やはり会津にいきましょう。ここで戦っても我々に勝ち目はない」
「近藤は怒りをあらわにして「新撰組の局長が誰であるのかを忘れたのか!
局長である私に意見をいうのは・・言語同断である」
新八はついに覚悟を決めて「私は同盟こそしていたが、あなたの家来ではない。
あなたがそのような考え方なら、私が新撰組の一員である理由がなくなった」

二人は袂を分かち合う。新八の本心は近藤勇に最後までついていきたかった。
この敗戦後に永倉は、近藤勇、土方歳三たちと決別する。新八は会津に近藤は新政府に捕らわれて打ち首になる。


明治二年二月帰藩を許され松前藩に復帰する。五十石を与えられた永倉は、明治三年に松前に移り住み、
明治六年には百五十石を与えられている藩医杉村松柏の娘、杉村よねと結婚。
杉村家の養子となった永倉は、後に家督を継いで名を杉村義衛とした。

明治九年五月一日、東京板橋に新選組殉難者墓碑を建立。
その後、北海道小樽へ移り、明治十五年から十九年まで北海道札幌樺戸監獄で剣術師範を勤めた。
退職後は東京に移り、牛込にて剣術道場を開く。

明治三十六年、再び帰って来た61歳のときに小樽の地で杉村義衛は最期を迎える。
時々は北大の道場で学生に剣道を教えなくなる2年前に新撰組の回想録を連載し、
それまで知られなかった新撰組の新事実を発表した。
大正四年一月五日、臨終。享年七十七歳。死因は虫歯の悪化による、骨膜炎、敗血症の為であった。
(北海道百年物語より)

大友亀太郎大友亀太郎 大友亀太郎は、札幌村をはじめて開拓した人です。

亀太郎は、1834年(天保5年)に、今の神奈川県小田原市の農家に生まれまし た。 22才の時、二宮尊徳に弟子入りし、すすんだ農業の方法や開拓の仕方を学びま した。
25才の時、幕府の役人として武士になり、蝦夷地の開拓のため箱館に来て御手 作場(開拓農場)を作りました。 その仕事ぶりが高く評価され、1866年(慶応2年)幕府から蝦夷地開墾掛を命じ られました。亀太郎は御手作場を石狩原野のサツホロと決め、伏古川のほとりから開拓をはじ めました。
札幌村近辺は、石狩川の左岸側の低地であり、現在は消失した小川も含めかつては多数の支流が流れていた。川には鮭が遡行するため、アイヌの良い漁場であった。江戸時代には、石狩平野にはいわゆる和人はほとんど居住していなかった。しかし当時の北方政策の立案者、提唱者たちの多くは、地勢を理由に石狩平野に蝦夷地の中心を置くべきだと考えていた。
幕末に、幕府の御手作場、すなわち幕府直営の農場を設けることになり、慶応2年(1866年)4月に大友亀太郎が12人を伴い、伏篭川(伏古川)のほとりに居住地を作った。大友らは森林を切り開き、道路を作り、交通と用水のための大友堀を引き、後続の移民を受け入れて戸数を増やした。
当面の食糧を給付する約束での移住であったが、直後に幕末維新の体制変革にあたって、給付が途絶えた。大友も村から去り、村民からは離散者が出た。
(北海道百年物語より)

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