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北海道の歴史

北海道の開拓(その5)

神田日勝
鹿追町HPより
鹿追町の農民画家
神田日勝  (1937-1970
神田日勝は、日常生活に根ざしたモチーフを
克明なリアリズムで描いた独特の作品により没後30年近くを経た今日でも高く評価されています。馬や牛、労働者の生活風景、画室など彼の生活の断片を描く。

「結局、どう云う作品が生れるかは、どう云う生きかたをするかにかかっている。どう生きるのか、の指針を描くことを通して模素したい。どう生きるか、と、どう描くかの終りのない思考の、いたちごっこが私の生活の骨組なのだ。(神田日勝)」
昭和12年 東京練馬に生まれる父要一(40歳)、母ハナ(31歳)日中戦争のさなかだったために「日本勝利」にちなんで日勝となずけられた。
昭和20年 8歳のとき、東京の空襲が激しく、一家(両親、兄弟5人)で鹿追町へ。農業のかたわら、独学で油絵をはじめる。49人の東京疎開者達は終戦の前日に鹿追に到着・しかし募集当時の条件はほとんど実行されず・彼らに与えられた農機具は鍬一丁だった。今まで経験したことがないだけにその苦労は大変な作業でした。やがて東京からの疎開者は次々に帰京。神田家だけが残って開墾を続ける。
昭和39年 大冷害・昭和40年に入ると大規模農業政策で機械化が進む。生き残りを計ってトラクタ−を導入する農家が増える中、日勝だけはもっぱら人力と馬による農業を続けた。資本をかけなければ借金もない。収穫は限定されても冷害の打撃を最小限に食い止められる。農業合理化の中で自分の信条を守る。
妻は当時の日勝についてこう語る。「彼は農業というより、自然の中で暮らすのが好きだったんでしょう。本当に農業が好きなら。経営の収支にもっと真剣になっていたでしょうから。{天気が良いから今日は遊びに行こう}という調子で普通の農家では考えられないことです」その為・生活もいつもギリギリで、キヤンバスを買えないからベニヤ板をきって使っていた。
昭和45年 夏に雷雨の中で牧草積みをしていた日勝は風邪をひき・その後も体の不調は続き・32歳で急逝するも、美術史に残る名声を手に入れる。絶筆は「馬」(未完)。死の十日程前に「病院でじっとしているのも退屈だし少し具合がいいので絵の具とキャンバスをとって来る」といって一人で自宅まで行って来た。

「神田日勝記念美術館http://www.hbc.co.jp/gallery/kanda/  (北海道百年物語より)


札幌で暮らした白虎隊唯一の生存者
札幌の通信分野でも大きな貢献
   
飯沼貞吉
 
1854年〜1931年

1854年 会津藩(現在の福島県)の飯沼時衛の次男として生まれました
1868年 鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争と厳しい局面を迎えていた会津藩は、全軍を年齢別に四隊構成とする、フランス軍の隊編成を参考に軍制改革を行い、その一つが16、17歳の最年少の隊士「白虎隊」を組織しました。飯沼は、当時15歳でしたが、年齢をごまかして入隊。出陣に際し、母のふみは、「ひきょうな振る舞いをしてはならぬ」と言って送り出したそうです。日夜激戦を重ね、同年8月飯盛山(福島県)にたどり着きました。砲煙が上がる鶴ケ城を見た少年たちは、絶望と疲れ、負傷、空腹のため次々と自決しました。飯沼も脇差を力一杯にのどに突き刺し、自決を試みましたが、通り掛かった足軽(下級武士)の妻ハツに助けられ、長岡藩の軍医の手当てよって、一命を取り留めることになりました。こうして飯沼は、白虎隊唯一の生存者となったのです。そして彼の証言により、白虎隊の悲劇が世に伝えられることになりました。
1885年
明治18
文明開化の日本では、各地で電信を取り入れはじめていた−(あの時。自決の前に落城できたかどうかを確認できていたら仲間は死なずにすんだ)その後悔の念が−逓信省技師となる。(1905)年から5年間、郵便局工務課長として札幌に赴任しました。札幌物産大共進会が開かれた時、会場に公衆電話を設置したのは貞吉でした。これが北海道で始めての公衆電話となった。
1887年 370戸余りを焼失する大火が発生し、郵便局も類焼してしまいましたが、飯沼は、仮庁舎となった札幌農学校演武場(現時計台)で札幌に郵便局工務課長通信業務を継続しながら、復旧工事にも全力で取り組みました。また、札幌や小樽などの電話局の交換方式を単式から複式にする改良工事も監督し、完成。その後、仙台逓信局工務部長で退職するまで、日本の電信電話の発展に生涯をささげました
1931年
昭和6年
6月、78歳でこの世を去りました。
平成元年(1989) 飯沼の遺徳を後世に残すため、札幌会津会とNTT北海道支社が協力して、かつて札幌で暮らした場所(南7西1)に「会津藩白虎隊士飯沼貞吉ゆかりの地」と刻まれた三角の碑を建てました(北海道百年物語より)
飯沼貞吉の碑 母は別れにあたって一首の和歌を詠み、
短冊にしたためて与え彼の初陣を激励した

梓弓(あずさゆみ)むかふ矢さきはしげくとも引きな返しそ武士(もののふ)のみち

飯沼晩年の歌
「過ぎし世は 夢かうつつか白雲の 空に浮かべる心地こそすれ」

知里幸恵
http://www.h2.dion.ne.jpより

アイヌ民族の女性。 知里幸恵(1903年〜1922年


アイヌの叙事詩を歌った「アイヌ神謡集」を残しました。
叙事詩とは民族の英雄のことを、ありのままにうたいあげた詩です。
アイヌ民族ではじめてユカラやカムイユカラなどのアイヌ文学(口承)を文字表記して著した人として知られています。

1903年 幸恵、知里高吉・ナミの長女として登別にて誕生(6月8日)。まもなく両親の手で受洗。人口は2500人・そのうちアイヌ民族は2百数十人。農業と牧畜を生業とする。父親が窃盗の疑いで逮捕されていたために生活が苦しかった。母と母の姉のマツはキリスト教を信仰。
1909年 伯母・金成マツは平取から旭川近文教会に転勤、以後18年間旭川に在勤。幸恵はマツの養女として預けられる。明治維新後・急激な勢いで北海道に侵入してきた和人達はアイヌ民族を日本人として同化させる手段の一つとして教育に徹したが、クラスの和人から差別をうけるなどして次第に学校にいかない子供達が多くなりました、
1917年 旭川区立女子職業学校に110人中4番で合格。派手好みの雰囲気である女学校では妬みがことさら強く、たった一人のアイヌ民族の子である幸恵は「ここはあなたがくるところではないのよ」と仲間はずれの差別をうける。さらに学校までの6キロもの道のりは健康状態を悪化させる。
1918年 言語学者・金田一京助が宣教師J.バチラーの紹介で旭川の金成マツを訪ねる。金田一はその夜泊まったが何もだすものがなくて「じゃがいもをゆでて下さい」との金田一の言葉に顔を見合わせた。その時はじめて幸恵に会い、その才能に驚く。おそらく体調不良であろうが2学期以降は学校を休みがちになる。
1921年 4月「アイヌ伝説集」ノートを金田一に送る。体の具合を見ながら書き上げた筆跡をみて、金田一は「あまり立派なできで、私は涙がこぼれるほど喜んでいます」という手紙を送る。近文の女性が窃盗事件を起こす。アイヌであることを理由に新聞に誇張した記事が書かれる。マツ、モナシノウク、幸恵、真志保の四人暮らしとなる
1922(大正11) 5月、上京し金田一京助宅に寄寓。8月、心臓病を発病。京後につけていた日記は7月末で終わる。9月18日、『アイヌ神謡集』の校正を終えたところで心臓麻痺で急死。雑司ヶ谷墓地に埋葬される。19歳。
http://www.h2.dion.ne.jp/~moto03/
金田一京助から。

「あなた方はアイヌ・アイヌとひとくちにまるで人間扱いもされず、侮辱をひたさら我慢している。
しかしユ−カラは、あなた方の祖先が長い間口伝えに伝えてきた叙事詩だ。
叙事詩というものは、民族の歴史であると同時に、大切な文学なんだ。
アイヌ民族は文字を持たない。
今の世に、文字ではなく音で叙事詩の姿を、そのまま伝えている例は世界にユ−カラの他にはない。
だから今・我々がこれを書き付けないと後では見ることも知ることもできない。
貴重なあなた方の生活なんだ。
だから私は全財産を費やしても・全精力を注いでも惜しいとは思わない」

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