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北海道の歴史

北海道の開拓その4

竹鶴政孝
http://www.nikka.com
竹鶴政孝

ニッカウヰスキーを興す。
「万年筆一本で、わが国のウイスキ−の秘密を盗んでいった青年がいた」と後に言われた。

竹鶴政孝1894年〜1979年
日本の洋酒の歴史は明治の文明開化とともに始まる。
明治三年のジンから始まって・ウィスキ−・ブランディと輸入されましたが微々たるものでした。
値段も高く・もっぱら在留外国人の飲み物に過ぎなかった


平成26年からNHK朝のドラマ
{まっさん}の主人公として取り上げられる。

明治27年
6月
広島県竹原市竹原町に生まれる。竹鶴家は竹原市の三大塩田の地主の一つで・また造り酒屋でもあった。酒の銘柄は「竹鶴」。酒の名前と、蔵元の名前が同じなのは全国でもここだけだったそうです。8歳の時に、二階の階段から転がり落ちて鼻を強打、 失神。後年、この時のケガについてこう語っています。「このケガで大きい鼻がさらに大きくなった。ところが、鼻が良く通るというのか、人が感じない匂いを感じるようになり、のちに酒類の芳香を人一倍利き分けられるようになったのも、このケガのあとからであるから、人生というものは不思議なものである。」
大正 7年
7月
英国に赴きグラスゴー大学に留学、応用化学を学習
「外国製品に負けない。国産の本格的なウィスキ−を造る技術を学んできます」彼は24歳でした。
大正10年
11月
講。蒸留の方法を、ジョニーウォーカー系の工場で習うことにしましたが、技術は門外不出。子から孫へと語り継がれていました。3週間通ったあげく、蒸留主任のおじいさんが、その熱心さにほだされ、夜間こっそりと蒸留技術を教えてくれたのです。 摂津酒造(株)における洋酒製造計画立消えのため退社
昭和 9年
7月
借金の100万円を資本金にして、大日本果汁株式会社を創設、商品名は日果をもじって、ニッカとしました。寿屋時代の昭和5年に余市を訪れたことがある政孝は、気候・風土がスコットランドとそっくりなため、密かに余市を気に入っていました。ウイスキーには熟成が必要です。最低でも4〜5年は寝かせておかなければなりませんでした。売れなくて苦難の時期を迎える。
昭和54年
8月
逝去、享年八十五歳、竹鶴の健康法はウィスキ−を毎日一本飲むことでした
自分からウィスキ−をとったら何も残らない」と語る従四位に叙せられ銀杯を賜わる

大学時代の同級生の家に食事に招かれた彼は、優しくて美しい、その姉、リタに一目ぼれし、やがて結婚。
リタが亡くなったとき、政孝は三日間部屋に篭ったという。
リタがスコットランドを懐かしみ、好んだ高台にある二人の墓石の裏には
"IN LOVING MEMORY OF RITA TAKETSURU"
と刻まれている。
「ウイスキーは品質で売らなければ勝てない。儲けようと思うと良い酒はできない。
絶対に、品質第一主義である。これに徹して、悠々十年先を考えるのもまた、楽しい人生である」

北海道大学初代総長
クラ−ク博士の教えをうけた第一期生


佐藤昌介1856年〜1939年

クラ
−ク先生からいただいた言葉
昌介は,
Be Social, be gentleman(人と交われ,紳士たれ)をモットーとし・
それは農学校の規則もさることながら、
人間としてのあり方も、この一言以外のなにものでもありません。
昌介にとって北海道に第一歩をしるした時に与えられたこの言葉は生涯・
忘れられないものとなり、何度も語った。
1856年
(安政3年)11月

盛岡藩士佐藤昌蔵の長男として花巻に誕生。幼名謙太郎。父親の佐藤昌蔵は政治家。しかし昌介が小さいときは明治維新という風が旧幕府の南部藩士という父親の立場を悪くして隠居を余儀なくされたために14歳で昌介は家督をつぐ。藩学校の揆奮場に入学し、その能力を発揮した。漢学・国学・剣術・砲術・馬術などを学ぶ。特に馬術に優れ大坪流の達人であった。

1870年(明治3年 14歳で藩校「作人舘」に入学、寄宿舎生活をした。ここで後の総理大臣になる原敬と机を並べる。学問が好きで、常に「今日学ざれば明日なし」という気持ちで取り組んだ。
1882年(明治15年) 農業の指導が学校で学んだだけでは不十分だと感じて自費で渡米し(黒田長官に認められなかった為自費となる)、ジョーンズ・ホプキンス大学に留学。翌年から研究生となる
1918年(大正7年) 北海道民が望んでいる独立した総合大学を札幌に作るべきだと主張・当時の大隈内閣は政府からお金はだせないといっために昌介は日本医師会の後援を得て、創立費用は有志の寄付と、かねてから彼がこの日に備えて用意していた大学の財産を処分してまかなった。北海道帝国大学発足。初代総長になる。62歳。
1939年(昭和14年) 6月5日8時35分永眠す。84歳でした。葬儀は北大で初の大学葬でした。北海道内外の人々の参加は、札幌空前のもので、葬儀を飾った花は札幌だけでは足りず、東京からも取り寄せました。(北海道百年物語より)
スミス
北星学園より

明治時代の北海道において女性が学問することをといた。
彼女の座右の銘「後ろのものを忘れ・前に向かって進めよ」

サラ・クララ・スミス (1851年〜1947年)

授業には厳しく、英語の発音が正しくなるまで何度も繰り返させた。
このようにときには厳しく・時には優しく、母のような気持ちで生徒に接した。
スミスの教育がいかに徹底したものであったかは明治19年に学校を始めて以来
年後にやっと一期生2人を世に出した。
東京の津田塾の学生よりも優れた学生が多いと評判になった。

スミスは学費が続かなくなった生徒や学力の優れた生徒には、自ら学費を出して勉強させた。
生徒達に編み物やガ−デリングを教え。できあがったものには報酬を払い・労働の尊さを教えた
日本最初のライラックをアメリカから持ってきた。

1851年 ニューヨークで実業家の娘として生まれる。地元の高校を卒業後、三年にわたってフランス・ドイツに入学し、その後は教師として活躍
1880年 牧師になったばかりの兄がなくなった為、遺志をついて宣教師になる。東京・築地の新栄女学校・現在の東京女子学院への赴任の要請がり来日。スミス29歳
1883年 業績が認められて校長になるが、湿気の多い東京でリュウマチになる。北海道に静養にくる。当時の札幌にはクラ−ク博士や新渡戸稲造らがいてスミスに札幌での女子教育を進める。
1886年 アメリカの伝道局にそのことを報告するが大反対され、函館のミッションスク−ルとして開校していた遺愛女子高で教える。やがて北1西6の教室でスミス塾開設,初代校長に就任。そして当時の北海道開拓長官、岩村に会い、北海道での女子教育の必要を説く。岩村はスミスの熱心さに動かされて自分の厩舎・馬小屋を貸してくれた。公用物を外国人に貸すというのは役人としては前例のないとても難しいものだったのでスミスは喜んだ。2階を生徒の寄宿舎として、1階を教室とした。スミスは給料すべてをスミス塾と生徒の為に使った。札幌農学校の佐藤昌介・新渡戸稲造・宮部金吾が講師になって助けた。生徒数は46人でこれが札幌の女子中等教育の始まりとされている。
1894年 北4西1に900坪の土地を買う。校舎移転し校名を北星女学校と改称,校歌制定。スミス44歳校舎の完成にちなんで、新渡戸稲造がこの学校を「北星学園」と命名する。
1931年 昭和6年・スミスは80歳。皆日本への永住を願っていたけれどもカルフルニァの引退宣教師の自宅に帰る。50年の奉仕生活を終えて帰国したスミスは、来日したときと同じ服をきていたといいます。
(北海道百年物語より)
木田金次郎
(木田金次郎美術館より)

木田金次郎


明治・大正・昭和と岩内の自然を描き続けた
漁師画家
1893年〜1962年

「私は自分を画家だと考えたことはありません。
一人前の自分を作り上げるまで鍛錬したい。
作品は人です。人間が鍛えられて立派にならなければ、
良い絵が生まれるはずはありません。」

(明治26) 7月16日、岩内郡御鉾内町32番地に、父久造・母ワカの6人兄弟の次男として生まれる。
木田は7歳の頃から絵に興味を持つ。
(明治41) 15歳・岩内尋常高等小学校高等科卒業。4月、東京・開成中学に入学。当時は岩内から上京するのはとんでもないことでしたが、裕福であったこと、父親がやりたいことはなんでも挑戦させてやるという主義だった。
(明治43) 17歳・秋、京北中学4年を中退で帰道、札幌郊外で絵を描く毎日を過ごす。
11月、札幌で開催されていた黒百合会第3回展で、有島武郎の作品(たそがれの海を描いた小品)に深い感銘を受ける。この後、豊平川畔にあった有島の家を偶然見つけ、描きためたスケッチを携えて、数日後訪問する。11月末〜12月頃、岩内に戻るが、家業不振のために漁業に従事する毎日となる。このような生活の中で彼を支えたのは有島の「また作品ができたら見せにきてください」という言葉と、その後の35通もの励ましの手紙でした。
(大正12年) 30歳・6月9日、有島武郎が軽井沢で波多野秋子と心中。この頃から木田は漁業を捨て、画業に専念する決心を固めたといわれる。15歳も年上の有島との友情を心の支えとしていた木田にとって「地面が足元から割れてしまったのではないかと思われるような響きを持って、死の知らせが私の頭をうった。」
(昭和17年) 49歳・4月8日、山田フミ(後に文子)と結婚。職業画家として、日本の近代洋画がヨ−ロッパの美術様式の後をおっていく中で、ひたすらに自然を熟視することで、誰の影響も受けずに描き出す。
(昭和29) 61歳、9月26日、台風15号(洞爺丸台風)による「岩内大火」で、油彩・デッサンあわせて約1500〜1600点を焼失する。大火の翌日・取材にきた記者が木田に絵を失った心境を聞くと彼らに向かっていいました。「それよりもあのきれいな風景をみたまえ」それは大火によって油絵の具が溶けて固まり・それが朝日に輝いていた風景だった。11月、北海道文化賞受賞。「これまでの仕事は絵の勉強だった。これからが本当の仕事だと思えばいい。」
(昭和37) 12月15日、脳出血のため永眠。病床でも木田は無意識のうちに手を動かし・絵を空中に描いていたといいます。

(木田金次郎美術館より参照http://www.lilac.co.jp/kida-museum/kida_prof.htm)

「北海道にいると絵が描けない。東京へ出て何か適当な仕事をしながら絵の勉強をしたいので、
職をさがしてほしい」と有島に言う。
それに対して有島は、「その地におられてその地の自然と人とを忠実に熱心にお眺めなさる方がいいに決まって居ます」と激励し、
その言葉に「世界が急に明るくなった」木田金次郎は、岩内にとどまる決心をしたのである。
                                                (北海道百年物語より)

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