北海道の歴史

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北海道の開拓(その3)

高田屋嘉兵衛
北大図書館より
司馬遼太郎の「菜の花の沖」の主人公
北洋漁業の先駆者

高田屋嘉兵衛
1769年〜1827年明和6年(1769)、淡路島の西海岸で百姓の子として生まれた高田屋嘉兵衛は、海を見ながら育ちました「俺は静かな海よりも荒れ狂う海の方が好きだ。嵐の海をみていると、どういうわけか血がさわぎぐ。
荒れ狂う海の中で何かが俺を呼んでいる。
貧しい嘉兵衛一家は8人家族が9坪の小さな家にひしめきあって住んでいたため、長男の嘉兵衛は奉公に出て、生活を支えないといけませんでした。1781年12歳で和田屋へ奉公。ここで嘉兵衛は商売と船・この二つの技術を学んだ。
1790年兵庫の堺屋のもとで北前船に乗る
「誰か私に船を買うお金を貸して下さい」
そのように頼み込む嘉兵衛に栖原屋角兵衛は「函館に行きなさい」っていって貸してくれた。そして「辰悦丸」の誕生
★1899年 エトロフ島開拓17ヶ所の漁場を開く
27歳で辰悦丸を建造して独立した嘉兵衛は、整備された中央との商取引が無かった蝦夷地に
新しい可能性を求めて箱館を本拠地として本格的に海運業を始めた。
巨万の富を一代で築いた嘉兵衛だが、それを独占すること無く、道路の改修、開墾、植林、
港内での養殖や漁具の改良など、積極的に地元へと還元した。

ロシアの南下政策が進められた文化8年(1811)、ゴローニン事件をきっかけとして、
日露の対立が深まった際、捕らえられた嘉兵衛は獄中より両国を説得。
折衝役として抜擢されこの事件を解決し、日露関係の悪化を防いだ。
しかし嘉兵衛はロシアの抑留生活で、体をこわしていました。
このため49歳の時に函館でのすべての事業を弟に譲り淡路島に帰る

司馬遼太郎が嘉兵衛の一生を描いた小説「菜の花の沖」の中で、嘉兵衛はこう言っている。
「商人というものは利を追うものでありながら、我欲ではそれが出来ない。
我欲の強い人間は既にその為に盲目になっている、(中略)
だから利という海で泳ぎながら自分自身の利については鈍い人間でなければならない」

昭和33年(1958)、功績を称え宝来町に銅像が建立された。

司馬は大役のあと故郷淡路島の都志に隠棲した嘉兵衛に、こう語らせている。
《菜の花はむかしのように村の自給自足のために植えられているのではなく、
実を結べば六甲山麓の多くの細流の水で水車を動かしている搾油業者の手に売られ、
そこで油になって、諸国に船で運ばれる。
たとえば遠くエトロフ島の番小屋で夜なべ仕事の網繕いの手もとをも照らしている。
その網でとれた魚が、肥料になって、この都志の畑に戻ってくる、わしはそういう廻り舞台の下の奈落にいたのだ》

                          (北海道百年物語より)


村橋久成
北大図書館より
日本初の日本人のための・日本人によるビ−ル造り
村橋久成(1842年〜1892年)
1842年  薩摩藩上級武士の村橋久柄の嫡子として出生
1848年 琉球着任を命じられた父、久柄をのせた船が遭難し行方不明になり、わずか6歳にして家督を相続する
1865年  英国留学の藩名下る(23歳)「西洋の近代的な技術を学び強い国を作らなければ、日本はいずれ植民地への道をたどるだろう」
このような薩摩藩主の考えから、日本がまだ鎖国の中・薩摩藩は法を犯して極秘に15人の留学生をイギリスに送り込んだ。
明治4年(1871)11.28 開拓使に採用、東京出張所在勤  黒田から絶大な信用を得た村橋は開拓使に入る。
村橋の夢はかってイギリスでみた近代産業を、北海道で実現することにあった。
ちょうどそのころ外国人のト−マス・アンチセルが野生のホップを発見。
北海道には建設用の木材も豊富にあり、気候もビール製造に適していて、
氷や雪がたくさんあるのも都合がいい。(東京に試験的に建設するのではなく)
最初から実地に建設したほうが移設や再建の出費を省くことができる。
ついては、来春から北海道に建設することにしたい。」
重大な決意をもってしたためられた1通の文書が、札幌への麦酒醸造所建設を実現させたのです。

その後・村橋は放浪の旅にでました。
どこでどう過ごしたかは、今でも謎のままです。
明治25年、神戸市の路上に倒れている男がいた。
「鹿児島出身 村橋久成・病名肺結核兼心臓弁膜症・明治25年9月28日死亡。


村橋が情熱をかけて取り込んだ開拓使麦酒醸造所は明治19年に民間に払い下げられ
札幌麦酒会社になる・昭和38年にはサッポロビ−ル(株)になる。(北海道百年物語より)

江戸時代末期・札幌の山あいで温泉を発見


美泉定山
(みいずみじょうざん)

1815年〜1878年

(1805)備前の名刹妙音寺の二男として生まれ、17歳にして出家し、高野山で修行、諸国巡錫の旅にでる。
アイヌから、「天然のお湯が湧き出て、傷ついた鹿が湯あみなどしている」という話を聞き、
文久元年(1861)にこの温泉を探し当て、慶応2年(1866)には湯治場を設置している。
明治4年に本願寺街道が整備されたあとは札幌との往来が可能になり、定山渓温泉は大きく脚光を浴びた。

開拓判官岩村通俊の案内により、参議副島種臣と開拓長官東久世道禧が温泉に立ち寄り、
定山の努力を称え、これが定山渓の名前の始まりとなったという。

定山が自分の死期をさとり、行方をくらましたのは明治10年の冬。
遺体が発見されたのは2週間後でした。73歳でした。

定山寺よりhttp://www.jouzanji.or.jp/history.html(北海道百年物語より)

有島武郎
北大図書館より
有島武郎

「我が真生命の生れし故郷ハ実ニ札幌なりき」
23歳の日記より)有島武郎(1878〜1923年)有島武郎は二度、心中を試みた。一度目は21歳のときで、札幌農学校の級友森本厚吉と定山渓で死にそこねた。あまり議論されてこなかったことだが、男どうしの心中計画である。どうも森本が「君との友情を大事にするために、他の連中を切っている」などと言われたことを、有島がまっすぐに受け止めたのではないかとも推測されている
 死にそこねた有島は、その直後、キリスト者になる決意をして内村鑑三を読み耽った。しかしそれでも離れない森本と一緒にアメリカにわたったのち、有島はアメリカのキリスト教徒たちの堕落を見て、キリスト者になることを断念してしまう。すでにこれら事態の推移に、有島が今後抱えることになるいっさいの矛盾は噴き出ている。二度目の心中は45歳のときで、美人記者だった波多野秋子と、かねての計画通りに軽井沢の自分の別荘「浄月庵」で心中をはかって、思いを遂げた。

明治11年 東京で有島武・幸子の長男として生る。有島生馬(明治39年、、里見ク(明治43年)は実弟。4歳の時に父の横浜税関長に伴って横浜に。当時横浜は西洋文化の入り口で・ここで暮らした5年間ミッションスク−ルに通い・アメリカ人の家庭で英語を学びました。一方家庭においては儒教と武士道のスパルタ教育を受ける。
明治20年 学習院。真面目で成績優秀なため、皇太子(後の昭和天皇)の学友になる
明治29年(18歳) 7月、学習院中等科を卒業。9月、札幌農学校予科5年級に編入学。札幌農学校で有島の親戚・新渡戸稲造が教授をしていた。初対面の新渡戸に好きな学問は?と聞かれ・「文学と歴史です」と答える。
明治32年 2月、基督教入信を決意する。 明治33年秋ごろから遠友夜学校とかかわりを持つ。新渡戸が開いた学校は貧しい人に無料で行うもので教師になる。
明治34年 23歳・3月、札幌独立協会に正式入会。7月、札幌農学校を卒業して離札。 36年から40年にかけて米国留学。4年間の農学校生活を終えて帰郷する際・札幌について「我霊魂の生まれたる所・すなわち真の故郷として忘れられねものになった」と語っている。
明治41年(1908年) 30歳、1月、札幌赴任。3月、学生監部勤務(恵迪寮舎監)。6月、大学予科教授となる。彼の講義は情熱的で新鮮なものだったので受講者が廊下にあふれるほどだった。
明治42年 1月、遠友夜学校代表となる。3月、陸軍中将神尾光臣次女安子と結婚。しかし20歳をこえたばかりの安子ではあまりにも子供っぽく、31歳の有島を精神的に慰めることはできなかった。結婚に対する理想と期待はなくなる。
明治44年 1月に長男行光(俳優森雅之)、翌年7月に次男敏行誕生。 大正2年(一九一二)35歳、8月、北12条西3丁目の新居(札幌芸術の森復元)に移る。12月、三男行三生る。 「生まれ出悩みにはこのように書かれている。「お前たちは去年、一人の、たつた一人のママを永久に失つてしまつた。お前たちは生まれると間もなく、生命に一番大事な養分を奪はれてしまつたのだ。お前たちの人生は既に暗いのだ」。
大正5年 8月、妻安子死す。まだ幼い3人の男の子がのこされた。長男がのちの名優・森雅之である。安子は自分が死んだことを子供たちには伏せるように、葬儀にも子供たちを参列させないように言い遺していた.12月父・武を喪う。「本当をいうと私は自分の仕事を心ゆくまでするために、密かに父の死を希望していた」と日記にある。今ようやく40歳になって「私は思いきって自分を主とする生活に這入るようになった」とも書かれている。本格的文学者としての道を歩み出す。
大正11年 44歳・7月有島農場の解放を宣言。長男として独占していた父の財産を母や兄弟にゆずり、さらに苦悶の末・農場450ヘクタ−ルを開放する。10月、個人雑誌「泉」を創刊。
大正12年(1923年) 「親ゆずりの財産をすべて投げ出し・自己の上に加えられていた圧迫感と罪悪感を軽くしてみたが・なお生命を蝕む空虚感・まるで底なしの沼に足を踏み入れたような感じをどうすることもできなかった」45歳、6月8日夕方・小さな風呂敷包みを持って、行き先を告げずに家を出た有島は、新橋と落ち合った秋子と軽井沢へ向かう夜行列車に乗る。二人は遺書を書き終わると、激しい雨の音を聞きながら並んで首をくくる。6月9日軽井沢の浄月庵で、波多野秋子と死す。
友人・足助素一にあてた遺書
永い永い暖い思出のミ残る。今朝は有難う。兄之熱烈なる諌止にもかかはらず私達は行く。僕ハこの挙を少しも悔いずただ十全の満足の中にある。秋子も亦同然だ。私達を悲しまないで呉れ給え。母、子供等の他所ながらお見守を願ふ。僕の著作の印税全部は将来三児にやつてくれ給へ。原、吹田、秋田、藤森其他の諸兄にも手紙を書くべきだけれども此際だから略す。兄より宜敷。
山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく振つている。私達ハ長い路を歩いたので濡れそばちながら最後のいとなみをしている。森厳だとか悲壮だとかいへばいへる光景だが、実際私達は戯れつつある二人の小児に等しい。愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思ハなかった。恐らく私達の死骸は腐乱して発見されるだらう
弟妹に宛てた「遺書」
「私のあなた方に告げ得る喜びは死が外界の圧迫によつて寸毫も従はされてゐないといふことです、私達は最も自由に歓喜して死を迎へるのです、軽井沢に列車が到着せんとする今も私達は笑ひながら楽く語り合つてゐます、どうか暫く私達を世の習慣から引き離して考へて下さい。」と。そして後事を託すのだ。「たゞ母上と三児との上を思ふとき涙ぐみます、」
 九日未明、愛宕山山麓は有島別荘淨月庵で縊死。武郎、享年四十五。秋子、享年三十二。七月七日、発見。遺体には瀧のように蛆がわき腐乱していた。

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