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北海道の歴史

北海道の開拓(その2)


中山久蔵

寒冷地稲作の父 
文政十一年(1828)現在の大阪で武士の次男として生まれる。17歳の時・仕官を志して江戸に向かう。なんとか一人で身をたてる術を探していたが何一つ得るがなかったが、二十五歳(1853年、嘉永六年)で仙台藩士片倉英馬の下僕となった。
そのころの北海道は、幕府直轄の時代で、周囲にはロシアなど外国の船がせまり騒然とした状況でした。仙台は白老から知床までを受け持つことになった為、久三は15年間・白老から仙台を行き来しました。ところが明治元年・久蔵40歳の時・明治維新で廃藩置県が行われたために、職を失った久蔵は今までの過去を振り返り、「自分はすでに年をとった。今まで失敗続きで何もなすことがなかったが・・生まれ変わったつもりで北海道に渡って思い切った事業をしょう」と北海道永住を決意し明治2年・12月、白老に向かった。久蔵・42歳のときでした
。翌年三月、彼は苫小牧を離れシママツ沢に移ると先ず雑穀の栽培を開始し、やがて稲作を始めます。当時の常識では北海道では稲作は無理と考えられておりました。

6千坪の田に道南から求めた「赤毛種」の種籾を植えました。
考えた挙句、久蔵はお風呂からお湯を持ち出して湯水を苗代に入れて見ました。
夜は水が冷えるので、毎日夜も寝ないで水を温めたので苗は見事に育ちました
2〜3年後には立派な種籾を産するまでになりました。やがて、その種籾は空知や
上川の農家にも配布されていきました。久蔵は各地の農村を歩いて稲作の指導をしました。
明治19年の設置された北海道庁の民間の農業指導員になる。

世界的にも、北海道は稲作の北限の地といわれますが、
現在の生産地は北緯45度近くの地域にまで広がっています
(北海道百年物語より)

島松駅逓所 旧島松駅逓所。駅逓とは、交通が不便な地に駅舎と人馬を備え、宿泊と運送の便を図るための場所。明治6年に札幌本道(現在の国道36号)が開通したときに設置。現存する道内の駅逓では最古のもので、昭和59年には国の史跡に指定された 。この駅逓所は、クラーク博士が帰国の途中に立ち寄り「青年よ大志をいだけ」という名言の舞台となり、また、明治14年には明治天皇本道ご巡幸の際の行在所ともなりました。昭和59年国史跡に指定され、当時の駅逓の構造を残す建築物としては道内最古のもので

美泉定山(みいずみじょうざん)

江戸時代末期・札幌の山あいで温泉を発見


美泉定山
(みいずみじょうざん)

1815年〜1878年

(1805)備前の名刹妙音寺の二男として生まれ、17歳にして出家し、高野山で修行、諸国巡錫の旅にでる。
アイヌから、「天然のお湯が湧き出て、傷ついた鹿が湯あみなどしている」という話を聞き、
文久元年(1861)にこの温泉を探し当て、慶応2年(1866)には湯治場を設置している。
明治4年に本願寺街道が整備されたあとは札幌との往来が可能になり、定山渓温泉は大きく脚光を浴びた。

開拓判官岩村通俊の案内により、参議副島種臣と開拓長官東久世道禧が温泉に立ち寄り、
定山の努力を称え、これが定山渓の名前の始まりとなったという。

定山が自分の死期をさとり、行方をくらましたのは明治10年の冬。
遺体が発見されたのは2週間後でした。73歳でした。

定山寺よりhttp://www.jouzanji.or.jp/history.html(北海道百年物語より)


札幌で暮らした白虎隊唯一の生存者
札幌の通信分野でも大きな貢献
飯沼貞吉 1854年〜1931年

1854年 会津藩(現在の福島県)の飯沼時衛の次男として生まれました
1868年 鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争と厳しい局面を迎えていた会津藩は、全軍を年齢別に四隊構成とする、フランス軍の隊編成を参考に軍制改革を行い、その一つが16、17歳の最年少の隊士「白虎隊」を組織しました。飯沼は、当時15歳でしたが、年齢をごまかして入隊。出陣に際し、母のふみは、「ひきょうな振る舞いをしてはならぬ」と言って送り出したそうです。日夜激戦を重ね、同年8月飯盛山(福島県)にたどり着きました。砲煙が上がる鶴ケ城を見た少年たちは、絶望と疲れ、負傷、空腹のため次々と自決しました。飯沼も脇差を力一杯にのどに突き刺し、自決を試みましたが、通り掛かった足軽(下級武士)の妻ハツに助けられ、長岡藩の軍医の手当てよって、一命を取り留めることになりました。こうして飯沼は、白虎隊唯一の生存者となったのです。そして彼の証言により、白虎隊の悲劇が世に伝えられることになりました。
1885年
明治18
文明開化の日本では、各地で電信を取り入れはじめていた−(あの時。自決の前に落城できたかどうかを確認できていたら仲間は死なずにすんだ)その後悔の念が−逓信省技師となる。(1905)年から5年間、郵便局工務課長として札幌に赴任しました。札幌物産大共進会が開かれた時、会場に公衆電話を設置したのは貞吉でした。これが北海道で始めての公衆電話となった。
1887年 370戸余りを焼失する大火が発生し、郵便局も類焼してしまいましたが、飯沼は、仮庁舎となった札幌農学校演武場(現時計台)で札幌に郵便局工務課長通信業務を継続しながら、復旧工事にも全力で取り組みました。また、札幌や小樽などの電話局の交換方式を単式から複式にする改良工事も監督し、完成。その後、仙台逓信局工務部長で退職するまで、日本の電信電話の発展に生涯をささげました
1931年
昭和6年
6月、78歳でこの世を去りました。
平成元年(1989) 飯沼の遺徳を後世に残すため、札幌会津会とNTT北海道支社が協力して、かつて札幌で暮らした場所(南7西1)に「会津藩白虎隊士飯沼貞吉ゆかりの地」と刻まれた三角の碑を建てました(北海道百年物語より)
飯沼貞吉の碑 母は別れにあたって一首の和歌を詠み、短冊にしたためて与え彼の初陣を激励した

梓弓(あずさゆみ)むかふ矢さきはしげくとも引きな返しそ武士(もののふ)のみち

飯沼晩年の歌

「過ぎし世は 夢かうつつか白雲の 空に浮かべる心地こそすれ」

 

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