北海道の開拓使 (その1)
北海道庁HPより |
榎本武揚 1836年〜1908年 動する幕末の時代に幕府の国を蝦夷地に作ろうとした そのために函館戦争を起こす。 死を覚悟してまで自分の意思を貫いた ロシア公使、海軍、通信、文部、農商務大臣などを歴任した武揚の新しい国を築く夢は、多くの犠牲と共にはかなく消えました。 |
北の海が熱かった時代へ 「開陽丸」に乗って時間旅行 「開陽丸」 「葵の枯れゆく散り際に開陽丸」と詠われた徳川幕府の巨船開陽丸。 |
1836年 | 江戸・下谷御徒町に、御家人・榎本円兵衛の次男として生まれる。父は伊能忠敬の内弟子で蝦夷地にも測量にきている。通称は釜次郎。 食いはぐれのないようにとつけられた。 |
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1848年 | 12歳 | 昌平坂学問所に入学、(のちの東大)儒学を学ぶ。 最下位の成績。これは学問所が幕府の官僚の息子に良い点数を与えたため。 |
1858年 | 22歳 | 築地軍艦操練所教授となる。 学問所でジョン万次郎について英語を学んでいた。 |
1860年 | 24歳 | 咸臨丸、アメリカへ。武揚は乗組をはずされる。艦長は勝海舟 |
1862年 | 26歳 | 幕府留学生として、オランダに派遣される.発注した軍艦築造の監督。4年の歳月をえて完成。「夜明けは過ぎて陽は昇った」ということで開陽丸と名前がついた。 |
1867年 |
32歳 | 開陽丸で帰国、開陽丸艦長となる。釜次郎から武揚に改名。 戊辰戦争が勃発。政権をねらう反逆とされてしまう。「将来の日本のために平和な国を作りたい」と江戸を脱走。慶応4年8月14日、品川沖を軍艦8隻で、途中仙台で陸軍の将兵を乗船させ、蝦夷地へと向かい、明治元年10月20日、蝦夷地・森・鷲の木に総勢約3千名でその雄姿を現わした。 |
1869年 (明治2年) |
33歳 | 五稜郭にたてこもって7か月にして戊辰戦争が終わる。これにより明治維新の国内戦は終わり、鎌倉幕府以来700年余り続いた武家政治が名実ともに終わりを告げたわけで、五稜郭をもってその最後の地となった。 東京に送られた武揚は重要反逆者として投獄されたが黒田清隆が丸坊主にして武揚の助命運動をする。黒田の助命運動は西郷の願いでもありました。 |
1872年 (明治5年) |
36歳 | 無罪になる。北海道の鉱山技師を命じられる。こうして戊辰戦争で生き残ったものたちは皆・開拓使に入り、武揚も開拓判官になる。黒田を助け、また語学を生かして、樺太・千島など国土交換のためにロシアに着任。 |
1908年 (明治41年) |
72歳 | 黒田との友情は40年も続く。 (北海道百年物語より) |
土方歳三 娘が東京のNHKに行ったお土産として (2004年3月23日)買ってきてくれた 土方のカ−ドの中に含まれていたものです。 本当はスキャンして載せようと思いましたが ファイルも大きくなるし、汚くなるので 土方歳三資料館所蔵資料から借りてきました。 http://www.tamahito.com/ishida.htm |
土方歳三(1835〜1869) 北海道庁HPより |
元治元年(文久4年は2月20日に元治と改元された)4月12日付の彦五郎宛ての送り状には、以下のように記されている 覚え 一、はちがね一ツ 右は八月十八日御所非常、ならびに二十三日、三条縄手のたたかいに用い候あいだ、この鉢金は佐藤兄へお送り申し上げ奉り候。 子四月十二日 土方歳三 佐藤尊兄 (土方歳三資料館)。 |
土方歳三は、武州多摩の農家の生まれで、主として薬の行商で生活を営み、剣は近藤周助の天然理心流を学んだ。美青年で土地の人々から"歳さん、歳さん"と呼ばれ親しまれた。 |
北海道庁HPより |
黒田清隆 (1840年〜1900年) 開拓使の初代長官は、肥前の藩主・鍋島直正だった。しかし、高齢で健康にすぐれず、在職期間はわずか2カ月間だった。 2代目長官は公家出身の東久世通禧で、就任期間は2年2カ月間だった。 東久世が去ると、長官不在のまま、薩摩人・黒田清隆が開拓使の次官として登場する。長官を代行する、事実上の最高責任者だった。 |
1840年 | 11月9日(天保11年10月16日)。薩摩藩士の長男として生まれる。 黒田は下積み時代、西郷隆盛の補佐役をつとめる。 |
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1868年 | 28歳 | 薩長連合の成立に尽力。幕末には土佐の坂本龍馬と謀って薩長連合をまとめ、明治維新の大業の陰の働きを為す。函館戦争で28歳の若さで明治新政府軍の指揮をとり、榎本武揚率いる旧幕府を負かす。 |
1871年 | 自らアメリカに渡り、同国農務局長官ホーレスケプロン に頼み込む。 当時66歳のケプロンは「あなた以外に適任者はいない」と熱心に語る黒田に心うたれ、開拓使顧問として北海道の開拓を指導することになる。 この後開拓使は外国人の技術者をクラ−クやエドゥイン・ダンなど次々と雇い入れ、その総数は80名に及び、北海道の測量、地質調査、農業、工業、交通、運輸、土木など各方面で活躍した |
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1875(明治8)年 | 35歳 | 開拓使長官。北海道に赴任せずに東京から指示を出す状況は変わらなかった。屯田兵を創設 |
1900(明治33)年 | 60歳 | 脳出血のため8月25日没 葬儀委員長は榎本武揚だといわれている。 |
●1878年、黒田の妻の急死をめぐって、明治の大酒飲みという側面もあった黒田が泥酔してが
斬殺したという噂が ありました。
大久保利通は同じ薩摩出身の警視庁大警視・ 川路利良(かわじとしよし)に検視をさせ、病死と結論づけています。
この 直後に大久保が暗殺されたため、黒田は「おい(私)のせいじゃ!」の号泣
したそうです(北海道百年物語より)
開拓判官 島 義勇 (しま・よしたけ) 1822年〜1874年 |
整然とした札幌の街 (東西南北の区画整理) 島義勇は文政5(1822)年生まれの肥前(ひぜん)藩(現佐賀県)藩士で、明治2年(1869)7月に開拓使が設置されると開拓判官の一人に任命されました。 今の南1条通と大友堀(現在の創成川)を本府の 南北東西の基線に決め、建設に着手しました。 |
北海道神宮にある島義勇像 |
明治7年に帰郷し、憂国党の首領におされ、征韓党の江藤新平とともに佐賀の役で敗れ 鹿児島まで逃亡したが捕えられ52歳で斬罪に処せられた。 処刑された島を悲しんで、元従者がその魂を鎮めようと1875年(明治8年)北海道神宮に150本の桜の木を植えた 今では桜並木として北海道の春を飾る。 (北海道百年物語より) |
岩村通俊 (いわむらみちとし) 1840年〜1915年 |
最初は官許遊廓だった−ススキノ 通俊は土佐藩宿毛領主の重臣で、戊辰戦争には官軍の軍監として従軍し、慶応3年(1867)、倒幕運動に参加。明治に入って、鹿児島県令、初代北海道庁長官などを歴任した。 北海道全域にわたる開発に力を注ぎ、その基盤をつくりました、 |
東京に妻子を残し、29歳で北海道開拓半官として函館に赴任。 明治4年には島 義勇の大事業を引き継いで札幌にやってきました。 当時は新聞もラジオもない世界だから東京の情報が、正確に北海道に伝わるには半年も1年もかかりました。 しかし利益にさとい商人たちは全国から集まってきました。 そうするとそのうち商人のための宿屋ができ、飲み屋ができ、そして呉服屋などが次から次からできてきました。 そんな状況をみていた岩村は札幌首都建設に着手しょうと決めた。 ススキノの起こりは、開拓使が意図的に設けた遊廓でした。 明治4年、札幌本府建設が再開されると、数千人の請負人、大工、職工たちが送り込まれました。このため、函館から商人を移住させましたが、そのほとんどが貸座敷、旅人宿などの接客業で、花街を形成するありさまでした。 南4、5条西3、4丁目の2町四方を区画し、この場所に遊郭を移してまとめました。 東京から芸者数十名がこのススキノに呼び寄せられ・札幌の街も賑やかになった。 これが、官許遊郭といわれるものです。この遊郭は、岩村通俊(いわむらみちとし)判官により「薄野遊廓(すすきのゆうかく)」と名付けられました。 これは、この地を選んだ薄井竜之(うすいたつゆき)工事監督の姓にちなんだものという説と、 この一帯が茅野(すすきの別称)だったことから名付けられたという説があるようです。 (札幌市中央区役所Hp並びに北海道の偉人たちより) |
北海道庁HPより 月形潔 1847年〜1894年 |
「戸籍は月形において欲しい」との遺言。「月形死しても月形死せず」 全国で3番目の集治監「樺戸集治監」 月形は1847年福岡藩の武士の子として生まれる。 叔父の月形洗蔵は筑前勤皇党の党首であり、 幕末期江戸幕府に対して反旗をひるがえしたため、幕府は 反逆者として一族を捕らえて、目の前で叔父洗蔵の処刑を目のあたりにする。 潔は処刑を免れる。 続発する反逆事件によって生まれた大量の政治犯をどうするか、時の政府の緊急課題となった。西南戦争のあった翌年(明治11年)、全国の囚人を北海道に集め集治監を設置するという決議が元老院であり、翌明治12年には、内務卿伊藤博文が、この決議を具体化する。 |
旧樺戸集冶監(月形町) |