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北海道の歴史

松前藩  最後の城
松前に旅したアルバムの内容とダブってしまう部分もありますが
ここでは「司馬遼太郎氏」の松前に関する書籍を中心としてまとめていきたいと思います。

★ 松前氏の成立

秀吉は天下人になったがその力は関東に及ばず、まして奥州は手つかずであった。
天正18年(1590年)に北条氏が屈服することによって、奥州は動揺した。
松前(当時は蛎崎)慶広が担当の前田利家に会いに行く、
そしてそのまま2ヶ月かけて京にのぼり秀吉に聚楽第にてあう。
道南には津軽の安東氏の末流がいたが法的には自立することができた。蝦夷地支配権を認められる。
豊臣大名としても傘の中に入ったのである、
都ぶりも身につけたかったから連歌や茶道を学んで帰ってくる。
松前城
待つ舞松前城
松前藩も幕藩体制の一員となった。1635年に参勤交替の制度ができてから藩の財政は圧迫される。松前と江戸との間は1000キロもありそれにかかわる費用はこれまでの藩の1年分の収入に匹敵するものだった。1593年,蠣崎氏は豊臣秀吉から独立の蝦夷島主と認める朱印状を与えられた。そして1599年に姓を松前と改めた。松前藩がアイヌ民族との交易の独占権を行使するためには,アイヌ民族と和人の居住地を明確に分離し,両地域の境界には関所を設けて相互の往来を厳しく制限し,和人が自由に蝦夷地に行って交易することを禁止するだけでなく,アイヌ民族が自由に松前地方や東北地方に出かけて交易することも禁止せざるを得なくなった。こうして蝦夷島は和人地(松前地)と蝦夷地(蝦夷=アイヌ民族の居住地)に二分された。
松前竹林
最北の孟竹林

土も草木も本州の匂いがする。
江戸期の松前藩の人々は海運藩としての力を使って、本州の暖地性の植物を移入し、
それらを根ずかせることに勤めたがこれらの植物はその名残といって良い。
この孟竹林は松前藩の重臣、新井田氏が安政年間に長崎あるいは下関より移入したものと伝えられています。
(司馬遼太郎)


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