豊臣秀吉に追放され自決した豊臣秀次を探しての旅

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高野山から和歌山の旅 (2003年5月)

高野山高野山は弘法大師空海がおよそ1200年前開創された、真言密教の高野山真言宗の総本山です。
海抜約1000メ-トルの周囲を山々に囲まれた東西5.5km南北2.3kmの山上盆地。
この高野山を開いた弘法大師・空海は20才で出家し31才の804年に唐に渡り、
長安で恵果和尚より正当密教を得806年に帰国して真言密教を各地に広めました。
ライバルとされた最澄は比叡山に延暦寺を建てた。
難しい話よりも単純にどんな場所にこの高野山が存在するのかを見たかった。
私の目的はただ一つ
豊臣秀次が自害された場所を見たかっただけ

豊臣秀次自決 柳の間


豊臣秀次は秀吉によって翻弄された運命だったと思う。
その悔しさは如何程であっただろうか?
この部屋をみたくて高野山にきました。この山,山
都からは遠い山の中。 今でさえも人里離れたところであるのに
当時はすごく辺鄙なところだったと思う。
秀次の怨念がありそうで単純な私は背中がザワッ−としました。

  (撮影禁止なので写真はパンフからです)
高野山 奥之院 一の橋から御廟橋を渡って、御廟所までの約2kmの間を総称して奥之院とよんでいます
その参道には古い樹齢を数える杉木立が茂り道の両側には古来から有名な人達の多くの墓碑があります。特に豊臣、徳川時代の諸大名の逆修碑や供養塔が、巨石をもって多く建てられていました。また大手の会社のお墓もたくさんありました。
観光客?も感歎の声をあげていました


高野山の中心地付近に「総本山金剛峯寺」があります。これは、豊臣秀吉の創建したものだそうです
創建当時は「青厳寺」と言っていたそうです。
高野山は弘法大師空海が816年に開いた真言密教の
霊場。金剛峯寺など約120の寺院がある。
大門は高さ26mの二層門で両脇に金剛力士像がある。
高野山にある寺院の本坊。日本全国真言宗4000寺の総本山。高野山が一つの町になっていました。
司馬遼太郎が褒め称えた「空海」のビデオを金剛峰寺にて見ました。
時間があったらゆっくりと見たかった、と今でも思っています
高野山
高野山
高野山

バスの中で隣りに座った今流行りのピアスをつけ、マンガ本を読んでいる男の子
「何処に行くのか?」って尋ねてみたら高野山大学に通っているという。
毎日大阪から長い時間をかけて通学し、やがてはお坊さんになるのだと。
この若者がだんだんと悟り?を開いていくのかな。


★ 和歌山城。
説明書によれば紀州を統一した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。
徳川家康の第10子頼宣が入城し、紀州 55万5千石の城となり、以来水戸・尾張と並び
徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできたのです。

4時が閉門ということでただ走り回った。かなり疲れました。しんどかった。
7代将軍家継がわずか8歳で死去し、当然跡継ぎがいなか ったため吉宗は更に急遽征夷大将軍を継ぐことになります。吉宗は将軍職についてから紀州でやったような改革を更に全国規模で断行しま した。これを「享保の改革」といいます。吉宗は支出をおさえるため倹約令を出して奨励します。まず、幕府の費用、特に大奥の費用を大幅に減らして、自らも質素な生活をおくりました。食事は2食、たべる米は玄米(もみがらを除いただけで、精白してない米)。一日にのむ酒の量も決め、絹(きぬ)でつくった華美な服は着ず、木綿(もめん)の質素なものにしました。 和歌山城
和歌山城 吉宗の改革によって、年貢の収納率は上がり、享保の中頃には100万両の余剰金(よじょうきん)が生じて、幕府の財政は好転しました。

吉宗に抜擢されたことで知られる名奉行大岡越前守忠相は地方の役人だったところを吉宗が紀伊藩主時代に見出し重用して、江戸に来る時に一緒に連れてき たものです。幕末の名奉行遠山金四郎景元とともに江戸2大名奉行とされ、彼 の裁判は「大岡裁き」として講談の題材にも取り上げられました。後に1万石 を与えられ大名に列せられています。

天守閣からは市内が一望できて
静かに「紀ノ川」が流れていました。

広大な敷地に建てられていて
庭園や動物園もあるようです。

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