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私の旅のアルバム
日本の最北ー稚内・宗谷 北緯45度31分22秒(2006・05・03)まだ雪の中でした。

稚内駅稚内駅

画像に対しての説明は観光協会発行によるパンフとHPからの引用になります

日本最北端の碑
日本最北端の地の碑

宗谷岬の突端に位置し、日本のてっぺんに建てられています
北緯45度31分22秒に位置。
旧海軍望楼
旧海軍望楼
帝政ロシアとの国交が悪化し始めた明治35年に、国境の備えとして旧帝国海軍が建設したもので、当時最強といわれたロシアのバルチック艦隊が、宗谷海峡、津軽海峡、東シナ海のどこかを通過し、ウラジオストクに集結するかを察知することは、戦略上極めて重大であったことから、同望楼の海上監視にも、任務の重要性が課せられました
日露戦争の終結に伴い望楼の使命は終わりましたが、その後も、大正9年沿海州で起きた尼港事件では無線通信基地として、太平洋戦争では対潜水艦監視基地として使用されました
宗谷灯台
宗谷灯台
灯台の歴史は古く、道内では納沙布岬(根室)、日和山(小樽)に次いで、3番目に建てられ、明治18年9月25日に初めて点灯されました
対岸サハリンのクリリオン岬までは43km
間宮林蔵の像間宮林蔵の立像
林蔵の生誕200年にあたる昭和55年7月に、彼の偉業を顕彰し、時代を担う青少年に、世界へ羽ばたく夢と勇気を培ってもらおうとの願いから建立されたものです
林蔵が渡樺の決意を秘め、はるか樺太を望見している立像で、栽付袴に羽織、足袋、2本差しと、肩には海上計測用の“縄索”をかけています
像は、実物より2割ほど大きい、高さ2メートルのブロンズ像です
碑文
戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい『みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……』の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む
九人の乙女の碑
九人の乙女の碑
氷雪の門
樺太島民慰霊碑 氷雪の門
樺太島民慰霊碑 氷雪の門

碑文
人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った
戦後はその門もかたく鎖された
それから18年、望郷の念止みがたく樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく、肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、木原豊次郎氏、笹井安一氏の熱意と、全国樺太連盟の賛同、並びに全国からの心あたたまる協力によって、ここに記念碑を造る
氷と雪のなかで、きびしく生き抜いた人々を象徴する女人像、望郷の門、霊石を三位一体とする彫刻家本郷新先生の力作がここに出来上がった
この記念碑を氷雪の門と命名した
昭和天皇行幸啓記念碑

昭和43年9月、開道百年記念式典のご臨席のおりに、ご来市になられた天皇・皇后両陛下は、稚内公園の『九人の乙女の碑』の前で、当時の浜森市長より九人の乙女の悲話をお聞きになりました
両陛下は、目頭に涙を浮かべられ、深く頭をお下げになり、九人の乙女の冥福をお祈りされました
後日、この時のご感銘を次ぎの様に詠まれました

御製(天皇)
樺太に命を捨てし たおやめの 心思えば胸 せまりくる
御歌(皇后)
樺太につゆと消えたる おとめらの みたまやすかれと ただいのりぬる
南極観測樺太犬訓練記念碑
昭和32年、国際地球観測年を機に、日本が初めて南極観測に参加するにあたって、極地での物資輸送を目的に"犬ぞり隊"が編成されました。 この"犬ぞり隊"の主役が、稚内周辺から集められた樺太犬たちです
  南極へ出発する前に、"犬ぞり隊"は稚内公園で8ヶ月間、厳しい訓練を受け、その中から選び抜かれた22頭の樺太犬は、南極観測船『宗谷』で白い大陸に渡り、任務をまっとうしました。
  しかし、南極の悪天候を克服できず、樺太犬15頭が現地に置き去りにされて死ぬという悲劇を被りました。
  そして、昭和34年1月、第3次越冬隊がタロ・ジロの奇跡的な生存を確認し、当時世界の人々を感動させたことは今日でもよく知られています。
南極観測樺太犬訓練記念碑

名寄

SL排雪列車「キマロキ」
SL排雪列車「キマロキ」の勇姿を見ることができます。
 昭和50年12月 SLは全国から姿を消したのを機会に、昭和51年当時の国鉄から無償貸与され、その年の12月より名寄公園に展示されることになったのです。現在地には平成5年に移設されました。

砂澤ビッキ
風の精霊たち  聴く 視る 語る
音威子府村(おといねっぷむら)の廃校をアトリエに、木の声を聴き、木に宿る気配、生命を感じながら、
手技の魅力に満ちた〈午前3時の玩具〉シリーズ作品、「風」をテーマにした

1931(昭和6)年
父・砂澤市太郎、母ベラモンコロの子として旭川市に誕生。本名は恒雄(ひさお)。「ビッキ」は幼少時からの愛称。
市太郎とベラモンコロは、ともにアイヌ文化の伝承者でした。母はチンジリ(刺繍)や切り伏せを、
父は農閑期になるとマキリ細工や熊彫りをーそんな暮らしのなかで、ビッキは自然にアイヌ紋様に触れ、彫刻刀を持って遊んでいました。

1953(昭和28)年
22歳。父の死去後、母の住む阿寒湖畔に滞在し、土産物の木彫りに従事。
その後、鎌倉に移住し、春から夏は阿寒湖畔、冬は鎌倉という生活が始まる。

1967(昭和42)年
36歳。札幌に住居を構え、アトリエを持つ。

1978(昭和53)年
47歳。音威子府村筬島に移住。小学校の廃校舎をアトリエとし、「アトリエ・サンモア」と命名。

1989(昭和64)年
1月、「現代作家シリーズ'89 上野憲男・砂澤ビッキ・吹田文明展」(神奈川県立県民ホールギャラリー)の会場にて展示を指導。
同展オープニングに出席の後、1月25日、札幌にて骨髄ガンのため逝去(57歳)。

★ちょうど家族で出かけた帰りの飛行機の中で彼が寝台に横なって運ばれているのと遭遇しました。
それだけ何とも言えなかったです。


砂澤ビッキ作品
風よ

お前は四頭四脚の歌
お前は狂暴だけに
人間たちはお前の中間のひとときを愛する
それを四季という
願わくば俺に最も
激しい風を全身に
そして眼にふきつけてくれ
風よお前は
四頭四脚なんだから
四脚の素敵な
ズボンを送りたいと思っている
そうして一度抱いてくれぬか
砂澤ビッキ 作品砂澤ビッキ 作品 砂澤ビッキ 作品
音威子府村(おといねっぷむら)の廃校をアトリエに

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