私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります私の小さな旅 旅のアルバムのトップに戻ります       鳥取、島根、出雲、松江城を訪ねて

水の都あるいは東洋のベニスと呼ばれる松江。

二度目は2017年11月17日娘たちに連れていってもらいました。


松江城
千鳥城の名をもつ松江城は、松江開府の祖堀尾吉晴が慶長16年(1611年)、
4年の歳月をかけて完成させたもので堀尾氏3代、京極氏1代、松平氏10代の居城。
明治初年の取り壊しを免れた5層6階の天守閣(重文指定)は、
築城後400年のいまも往時の風格を
そのままに漂わせています。
堀尾吉晴公は、愛知県丹波郡の土豪の家に生まれた。
美濃の山中で木下藤吉郎(豊臣秀吉)と出会って家来となりました。
 「仏の茂助」と呼ばれる温厚な人柄でしたが、二十歳台から五十歳まで、
戦いに明け暮れ、
豪勇の士として多くのエピソードを残しています。
 秀吉没後、三中老の一人として、徳川と前田、五奉行と徳川とのいざこざの解決に貢献し、
家康から本領遠州浜松12万石とは別に、越前府中5万石を贈られています

小泉八雲館
小泉八雲記念館
小泉八雲
本名ラフカディオ・ハーンLafcadio Hearn。ギリシア生れの英国人。
明治期の随筆家・小説家。1890年(明治23)米国の雑誌特派員として来日。日本文化に強くひかれ、島根県の松江中学に英語教師として赴任した。そのとき身の回りを世話した小泉セツと結婚、
熊本の五高へ転任。’96年帰化して東京帝国大学で英文学を講じた。この間日本の自然と伝統に彩られた生活文化を欧米に精力的に紹介。1904年日本の古典、民話から取材した短編集「怪談」を米国で刊行した。
小泉八雲は、熊本に転任するまでの1年2か月あまりを松江で過ごしました。小泉八雲旧居は享保年間(約200年前)に士族の屋敷として建てられたもので、三方を庭で固まれた平屋建瓦葺の家です。

 鳥取


砂丘に上る階段
すぐに砂丘が現れる

白兎海岸
兎はこの島から渡ってきた。
おきの島

白兎海岸は、昔淤岐ノ島に流されたうさぎがワニザメをだまして気多の崎まで渡ろうとしたが、
だまされたことに気がついたワニザメに皮をむかれて苦しんでいる時に、
大国主命が通りかかり「真水で身体を洗い、ガマの穂にくるまっていなさい」
と言われ完治したという神話「因幡の白うさぎ」の舞台といわれています。


東西に16キロメートル、南北には2.4キロメートルの広がりを見せ、海岸べりにある砂丘では日本最大の広さを誇ります。その景観の美しさから1955年(昭和30年)には国の天然記念物に指定されました。

砂丘は海に流れ込んだ砂が波などで岸に打ち上げられ、さらに強い風により陸地へ運ばれることで作られるもの。鳥取砂丘は鳥取県の山間にある中国山地から、鳥取市内を流れる千代川により日本海へ流れ込んだ砂で形成されています。

 島根県

小泉八雲(ラフカデイオ・ハーン)が「神々の国」と称した出雲の象徴・出雲大社(島根県大社町杵築東)

出雲大社注連縄
雲大社の大注連縄。これに向かって小銭を投げて注連縄に命中して
落ちてこなかったら大歓声をあげている人たち。
出雲大社
国譲りの代償として、高天原はオオクニヌシノ命に、太い宮柱を岩盤にとどくはど深くうちこんだ壮大な宮殿を建ててあたえたといわれているが、これが出雲大社の始まりという。島根県簸川郡大社町は交通の便が悪い。
バスを待つまでの間。古代から流れる空を見ていました。
『古事記』『日本書紀』『出雲国風土記』の三つには、出雲地方を舞台にした数多くの神話が書かれている。 特に『古事記』には色々な神話が記載されているが、出雲に関する神話がその三分の一を占めている。高天原から素箋鳴尊が追放される話、出雲に降りてきた素箋鳴尊による八岐大蛇退治、大国主命の国譲りの神話など、魅力的な物語が次々と続く。
縁結びの神として全国に知られ、年間約220万人が参拝する。

旧出雲大社駅

 旧JR駅 

映画に出てくる雰囲気です。
     出雲大社駅だったようです  
 

明治初期に新橋−横浜間が開通した後、「汽笛一声」の鉄道唱歌と共に日本各地に広がった鉄道。しかし昭和後期からのモータリゼーションなどが影響した結果、採算の悪いローカル線の一部は廃止の憂き目にあってしまいました。

鉄路を失った駅の駅舎は取り壊されて、バスセンターや公共の建物に変わることが多い中、保存の機運が高まり大事に保存されている所もいくつか存在します。

稲佐の浜
うなさの浜
この浜は、旧暦10月の神在月に、全国の八百万の神々をお迎えする浜でもあります
出雲大社
他の観光客にしてる説明を聞いたけだから
真偽のほどはわからないけれど何でも11月に
日本全国から出雲に集まった神様がここに泊まるらしい。

 西の京 やまぐち

山口県
角島(つのしま


真っ青に輝く海の向こうにある島に向けて、まっすぐ架かる一本の橋が印象に
残る風景。

南国を思わせるこの美しい風景が日本国内で、それも沖縄や九州ではなく、
本州で見られるということをご存知でしょうか?

その場所とは、本州の西の端、山口県にある角島(つのしま)大橋です。平家最後の戦いの地、壇ノ浦と火の山公園へ

山口県西部の下関市豊北(ほうほく)町にあり、本州と対岸にある角島を結ぶ
山口県道276号線の橋です。橋の長さは1780メートルあり、通行無料で渡れる
橋としては、沖縄にある古宇利大橋についで国内で2番目に長い橋となります。

7年の歳月をかけて2000年に開通し、それまで渡船で30分かかっていた島と
本州の移動が車でわずか数分に短縮。船の出航時間を気にする必要がなくなったことと、何よりも天候の影響を受けにくくなったことで、角島に住む人々と本州側の人々が気軽に移動できるようになりました。

ワカメソフトクリーム 名物です。

国宝 瑠璃光寺五重塔(こくほう るりこうじごじゅうのとう)
長州はいい塔をもっている。司馬遼太郎


大内氏前期全盛の頃、25代大内義弘は現在の香山公園に、石屏子介禅師を迎え
香積寺を建立しました。義弘は応永6年(1399年)足利義満と泉州で戦い戦死。26代弟・盛見は
兄の菩提を弔うため、香積寺に五重塔を造営中、九州の少貳勢と戦って戦死。五重塔はその後、
嘉吉2年(1442年)頃落慶しました。
それからしばらくの時を経た関ヶ原の合戦の後、毛利輝元が萩入りし、香積寺を萩に引寺。
跡地に仁保から瑠璃光寺を移築しました。これが今日の姿です。

全国に現存する五重塔のうちで10番目に古く、美しさは日本三名塔の一つに数えられ、
室町中期における最も秀でた建造物と評されています。ちなみに、日本三名塔の他2基は、
奈良県の法隆寺と京都府の醍醐寺にある五重塔です。また、檜皮葺屋根造りのものは
瑠璃光寺の他に、奈良県の室生寺と長谷寺、そして広島県の厳島神社にもあります。


若山牧水歌碑

はつ夏の 山のなかなるふる寺の
古塔のもとに立てる旅人

山口サビエル記念聖堂

記念聖堂は、昭和27年にサビエルが山口を訪れてから400年を記念して建てられました。
内部にはサビエルの一生を描いた美しいステンドグラスがあり、
聖堂からは15分おきに時を告げる美しい鐘音が市街に響いていましたが、
残念ながら平成3年9月5日に焼失してしまいました。その後、再建に向けて募金活動なども行われ、
焼失から6年と7か月経った平成10年4月29日、白亜に輝く待望の新しい記念聖堂が完成しました。
新しい記念聖堂は、高さ53メートル(十字架と鐘を含めて)の2本の塔と屋根が
建物全体を覆う三角錐となった斬新なデザインです。礼拝堂内部にはたくさんの
ステンドグラスが施され、パイプオルガンも設置されています。現在は、午前8時から午後6時まで
、1時間おきに時を告げる懐かしい鐘の音が戻ってきました。完工式の後、一般に聖堂内が公開され、
再建を祝う多くの人で賑わいました。


ザビエル

雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年) - 永正3年8月8日(諸説あり)(1506年))は、室町時代に活躍した水墨画家・禅僧。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。

備中国に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。

現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。

現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けているといえる。このほか、花鳥図屏風など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。代表作は、「四季山水図(山水長巻)」「秋冬山水図」「天橋立図」「破墨山水図」「慧可断臂図」など。弟子に、秋月、宗淵、等春らがいる

錦帯橋

山口県の東部、岩国市の錦川(にしきがわ)にかかる橋。一番最初に架けられたのは江戸時代の1673年という長い歴史を持つ橋です。
現在の錦帯橋は、1953年に架け替えられた3代目を2004年に全面改修したもの(2007年8月撮影)
錦帯橋がかかる錦川は、山口県下で一番大きな川であり、錦帯橋の付近は川幅が200メートルにも達します。

この川には過去に何度も橋が架けられたのですが、錦川の氾濫により橋が流されてしまったという経緯があり、時の岩国藩藩主 吉川広嘉(きっかわひろよし)の命により、
中国の西湖にあるという橋を参考にして、今のアーチ型の構造を持った錦帯橋が架けられました。

しかし初代の錦帯橋は、1年後の錦川の洪水であえなく流失の憂き目に。この時の流失原因を徹底追求して改良を重ねた2代目の錦帯橋は、
1950年の台風による大洪水で流されてしまうまで実に276年もの間、錦川の激流に耐えて人々をつなぐ橋としての機能を果たしました。

そして2代目錦帯橋の流失から3年後には3代目となる錦帯橋が再度かけられました。ただ木製の橋だけに傷みも早いことから、
平成に入ってから3年間の架け替え&補強工事が行われ、2004年に無事完了。古き昔も今も岩国の観光の中心的存在として、日々たくさんの観光客が訪れています。


岩国城

錦帯橋


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