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古戦場とお城めぐり

長浜城
長浜城
、豊臣秀吉公が長浜の領主となった天正年間(1570年代)に築いた出世城。
1983(昭和58)年に再建された。
もともとはこの地を今浜といい、秀吉が初めての城持ち大名になったときに長浜と改名。
彦根城に現存する天秤櫓(国・重文)と西の丸三重櫓は長浜城から移築されたものと伝えられている
姉川古戦場
姉川古戦場

姉川古戦場
畑の中の端にある姉川を中心に戦が始まった。
本当に周りは何もなかった。
浅井町の南端を流れる姉川。戦国時代、浅井長政と織田信長の間に生まれた確執から始まった浅井・朝倉軍と織田・徳川軍による姉川の合戦。激戦の末、浅井・朝倉軍は、小谷城へ敗走しました。兵士の血で真っ赤に染まったという姉川野村橋のたもとには現在、戦死者の慰霊碑が立てられています
姉川
これが姉川らしい。
姉川古戦場
何もない地に姉川はある

「賤ヶ岳の戦い」の古戦場跡
賤ヶ岳古戦場ロ−プウエイ

「賤ヶ岳の戦い」の古戦場跡
1583年(天正11年)、羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を争った「賤ヶ岳の戦い」の戦場跡。
戦跡碑、戦没者の碑があります。

ロ−プウェイにて上にあがるとこのように場面に出会うらいしいけれど私が行ったときはもうロ−プウェイの営業は終わっていました。
賤ヶ岳古戦場
賎ケ岳の戦い
織田信長没後の覇権を巡り、筆頭家老柴田勝家と明智光秀討伐の功労者羽柴秀吉が雌雄を決した賎ケ岳の戦い。秀吉が推したのは、長男信忠の嫡子三法師(秀信)3歳−柴田は信長の三男・信孝を後嗣として推挙する。
 1583天正11年、秀吉は本願寺に対し、加賀に一揆を起こし勝家の後方を撹乱するよう依頼。将佐久間盛政の暴走と、前田利家軍が急変、羽柴方に転じたために柴田軍の敗北に終わったが、
秀吉軍の兵が押し寄せて来るに及んで、浅井長政の三人の娘を秀吉の陣所に送り、妻お市の方と共に自刃して果てた。
小谷城跡
小谷城
小谷城
小谷城は初代亮政が大永年間(1521〜1528)に築城したものとされています。落城は三代長政の天正元年八月二十八日(1573)。小谷城攻略の武功第一として、秀吉は浅井氏遺領のうち十二万石相当と小谷城を拝領し、九月中には入城します。後に天下をとる秀吉ですが城持大名に初めてなったわけです。その後約二年半を在城し、天正四年春頃(1576)今浜を長浜と改め、石壘、城楼、町屋、寺院などを移しました。ここに小谷城は廃城となります。
小谷城
天正元年(1573)8月、浅井家の家臣で近江山本山城の守将阿閉貞征が織田方に内応、小谷城が孤立したため、義景は2万の兵を自ら率いて来援した。これに対し秀吉・柴田勝家・佐久間信盛らが義景を攻め、同13日夜、義景は信長の急襲を受けて越前に逃れ、なおも追撃され山田荘で自害した。その後、織田軍は小谷城へ向い、27日夜、浅井久政を自刃させ、翌29日、長政はお市の方と三人の子供を密かに城外に逃した後、自刃した
金ヶ崎城跡
金ヶ崎
金ヶ崎城跡
金ヶ崎城跡
元亀元年(1570)4月、信長は朝倉氏が上洛命令に従わないため、光秀、秀吉等を従え朝倉氏を攻撃すべく越前に入り、まず手筒山城を落とし、翌日には朝倉氏の一族の景恒が守る金ヶ崎城も攻略した。
 ところが、湖北の小谷城主浅井長政(信長の妹、お市の方が嫁いでいる)は、ふるくから同盟関係にあった朝倉氏を約束に反して信長が攻めたことから、信長に背いて挟み打ちにしようとして背後から兵を挙げたのである。さすがの信長もこれには驚き、直ちに軍勢をまとめ金ヶ崎城から撤退した。
 このとき、秀吉が撤退にあたってしんがりをつとめ(撤退の現場にとどまって押し寄せる敵を防ぐ役割)、死を覚悟した捨て身の作戦でかろうじて切り抜け、信長の秀吉に対する評価が一段と高まった。この秀吉の撤退は、世に「金ヶ崎の退き口」といわれるが、このとき秀吉以外に光秀や池田勝正もしんがりを勤めているが、歴史上光秀の軍功は消されてしまった。
 信長はこの浅井長政の反逆を大いに怒り、この後、姉川の合戦、小谷城攻めで浅井氏を徹底的に討ち滅ぼすことになる。―― 姉川の合戦で、浅井・朝倉連合軍を敗った信長。そして、その信を受け天下取りの道を進んだ秀吉。さらに、秀吉のしんがりを助け、後に謝意を受けた徳川家康……金ヶ崎城をめぐる出来事は、それぞれの武将にとって天下取りへの転換点となっているのです
金沢城
金沢城金沢城跡
天正11年(1583)前田利家が加賀・能登を支配することになり金沢に入城しました。
それ以前の金沢城は、加賀一向一揆の拠点としての金沢御堂、そして金沢御堂を攻略して佐久間盛政が築いた尾山城。尾山城になってようやく、小規模ながら城として体裁が整ったといわれます。
 石垣の築造など金沢城の整備は、文禄元年(1592)から慶長4年(1599)にかけて、前田利家の長男利長が進め、北に新丸を広げて大手門を築き、城の周囲を内惣構堀で囲みました。
 佐久間盛政の金沢御堂攻略は、後背地の小立野台地側から攻めたそうで、この方面が城の弱点といわれます。そのため、湿地帯だった場所に堀を穿ち、蓮池堀(百間堀)とし、城の堀に面する部分に高石垣を築きました。この時の整備計画を指導したのが、前田家に客将として仕えていた高山右近なのだそうです。
金沢城

石川郡の方を向いていたことからその名がついた石川門は金沢城跡の東に位置する重要文化財です
丸岡城
丸岡城 丸岡城
(霧ケ城)
福井県坂井郡丸岡町霞町

柴田勝豊(勝家の甥)が天正四年(西暦1576年)北ノ庄城(福井)の支城として築城したお城で(別名、霞ヶ城)、屋根が珍しい石瓦でふかれたこの現存する天守は日本最古を誇っており、城郭建築史上の重要な遺構とされており、国の重要文化財です。
北の庄跡地
盛政退却の報が届いた勝家の陣は、激しく動揺し、部下の過半数が逃散するありさまで、前田利家も退却を始め、同21日、秀吉軍の先鋒堀秀政が勝家本陣に迫ると、勝家も北庄に向かって退却を開始した。
 同22日、秀吉は府中に至り、同23日、利家を先鋒として北庄を囲んだ。同24日、大軍に包囲された勝家は、防戦に努めたが、やがて天守近くまで秀吉軍の兵が押し寄せて来るに及んで、浅井長政の三人の娘を秀吉の陣所に送り、妻お市の方と共に自刃して果てた。

北の庄跡地
お市の方
(お市の方)
北の庄跡地北ノ庄城
福井県福井市中央1-21-17

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