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運河の町・小樽

小樽はアイヌ語の「オタオルナイ」(砂浜の中の川の意)より転化したものといわれている。

天狗山から見た小樽 2019年10月

舞鶴へ向うフェリー

異国情緒あふれる歴史とロマンの街、小樽。かつてニシン漁で栄えたこの街は、北海道経済の中心地でもありました。金融機関も小樽に集中し、一時は北の「ウオール街」と呼ばれるほど栄華を極めたのです。
多くの作家や画家が生まれ育った小樽の文化の香りを漂わせている。
ニシン漁は最初・松前付近が中心だったが、漁場はやがて北にうつり、やがて余市が最大の漁場となり、
「千石場所」と言われた。余市にはその当時・松前から移住した人の祖先がも住んでいると言われている。
ニシンとともに漁師たちは去ったが、商人や農業に転じた人々は残った。場所請負人が場所ごとに建立したのが運上家(屋)です。
切現存するのは旧下ヨイチ運上家だけです
旧ヨイチ運上家
積丹岬
積丹岬
樽の北側、風光明媚な海岸線が続く大自然に囲まれた国定公園内にあるおたる水族館は、石狩湾の西北高島岬にあり、古くからニシン漁で栄えた祝津地区にあります。
小樽オルゴール堂
小樽オルゴール堂
「小樽オルゴール堂2号館」があり、世界各国のアンティークオルゴール、自動からくり人形などが集められ、演奏を楽しめます。
(堺町本通周辺)
余市宇宙記念館              
余市宇宙記念館
日本人科学者として初のアメリカNASAスペースシャトルエンデバーに搭乗した余市出身の毛利衛宇宙飛行士にちなんで建設。彼が体験した「ふわっと92」に関する展示紹介をはじめ、シャトルフライト体験や宇宙トレーニングコーナーなど、重力をテーマとして宇宙の不思議さ、面白さが展開される体験型施設。
余市宇宙記念館

日和山灯台
小樽の郊外、高島岬にある「ひよりやまとうだい」は、1883(明治16)年10月15日に木造六角形の灯台で初めて点灯されました。
日本映画の名作として知られている「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となったことでも知られている。
小樽運河
にしん漁場
道指定有形文化財
にしん漁場建築(旧田中家母屋)
にしん漁場
明治から大正年間にかけて、日本海沿岸地域ではにしん漁で大いににぎわい、繁栄しました。その漁場経営者たちは豊富な資金を利用し母屋を中心とする番屋、蔵などの大規模な施設を沿岸各地に建設していきました。この建物はそのうちの一つで、積丹半島の泊村に漁場を経営していた田中福松の住居兼作業場の母屋です。この建物は明治24(1891)年から基礎工事にかかり、同26年に建築に着手、同30(1897)年にしゅん工しました。その後、昭和33(1958)年、現在地へ移築されたものです。
旧日本郵船前(株)
小樽支店


明治39年10月完成。
石造り2階建て建築
北海道小樽市色内3-7-8
会津藩の余市でのお墓
会津藩のお墓
戸数にして169戸、人数にして600人が入植。幕末の戊辰戦争の頃、現在の福島県にあたる、会津藩は幕軍の最後の砦として、鶴ケ城に1ヶ月篭城し、必至に抵抗を しました。が、血と涙を飲んで官軍に降伏したのが、
明治元年9月22日の事でした。
明治新政府は、彼ら会津藩士を江戸へ送り謹慎生活を送らせた。
東京で一年間の謹慎生活の後、政府の思惑により、彼らは小樽へ送られました。 政府の思惑とは、彼らを開拓のために、北海道へ振り向けるということでした。
この時政府は、未だ謹慎の身にあった会津藩主松平容保を自由の身にするという事と
津藩の罪を許すということと引き換えに、彼らに北海道への開拓移民を飲ませたのでした。

余市は会津藩士により日本で最初にりんごの栽培に成功したところとして知られている。
1879年・余市の黒田・山田村に始めてリンゴの実が結ぶ。

編集後記

余市の美園町に会津藩のお墓があると書かれているのを見て
お墓の場所を探していったのです。
だいたいの目安をつけて行きましたがいっぱいあるお墓の何処が会津のお墓なのかがわからないのです・・
いっぱいお墓ばかりで・・(当たり前ですが・・)
そのお墓を探して警察に行っても本当にお墓があるのかどうかはわからない・・って言われ、
図書館で調べようと思ったら休みで・・いよいよ困って役場に聞きに行ったらわざわざ詳しい人を探してくれて、その上お墓まで案内してくれました。
そして会津藩について説明をしてくれました。
その方がいなかったらお墓を探すことはできなかったと思います。
その優しさに感動しました。

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