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宮本武蔵と倉敷を探しての旅


岡山、倉敷の旅  (2003年3月9日)
岡山城主の変遷を見たら興味ふかいものがある。
          

岡山城
(岡山城)
岡山城は豊臣秀吉の大坂城、毛利輝元の広島城と並んで近世城郭の魁となりました。その建築は8年にわたる大事業で、旭川の流れを変えて本丸の北面〜東面を巡らせ、堀の役割を持たせました。黒い下見板張りの外観から別名「烏城(うじょう」)と呼ばれ、また金の鯱を挙げていたと伝えられるため、「金烏城」の名もある名城です。
開城ー宇喜田直家
初代ー宇喜田秀家
2代ー子早川秀秋
3代ー池田忠継

10代  池田斎政
2代目の小早川は木下秀吉(後に羽柴、豊臣)の正室おね(北政所、高台院)の兄・杉原家定(後に木下)の五男に生まれる。おねに愛され、幼少から秀吉の猶子となるが、文禄元年(1592)に小早川隆景の養子となり、2年後、隆景の隠居に伴い家督を相続、筑前国・肥前国のうち30万7000石を領有し、わずか13歳にして名島城主となる。秀吉の第二次朝鮮出兵では奮戦するも、総大将でありながら敵陣に自ら乗り込んだ行為を軽率とされ、秀吉の不興を買う。岡山城に入城した秀秋は、その大幅な近代化改装に取り組んだ。よく知られているのは、従来の外堀の外側に新たに倍の幅を持つ外堀を築いたことで、これにより城域そのものが約2倍に拡張された。在封2年足らずの慶長7年(1602)、21歳の若さで没する。そして3代目の池田忠継は17歳で死去。
倉敷
大原孫三郎は、明治13年(1880)に岡山県倉敷市に大原孝四郎の三男として生まれた。
 大原家は米穀・棉問屋として財をなし、小作地800町歩(約800ha)、小作人2,500余名を数える倉敷一の富豪であった。明治を迎えて地元の殖産を託した倉敷紡績を設立するにあたり、孝四郎は初代社長に就いていた。
 大原家では二人の兄が夭折していたため孫三郎が跡継ぎである。遅くに生まれ身体が弱いこともあってわがまま放題に育てられた。長じて、旧藩校の閑谷黌に入ったが、勉強嫌いなうえに寄宿舎生活が肌にあわず飛び出してしまう。
 明治30年、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学するも講義にはほとんど出ず、取り巻きに誘われるままに遊里通いの放埒な日々を送った。田舎の大金持ちのせがれと値踏みした高利貸しがどんどん貸し込んだから、たちまち借金の元利が15,000円にのぼった。今なら億単位の金である。さすがに大原家は姉婿の原邦三郎を始末に派遣したが、その最中に邦三郎が倒れて急死してしまった。孫三郎は謹慎の身となり、孝四郎の実家である藤田家に預けられた。
 決定的な転機となったのは石井十次との出会いである。医師をしていた石井は、クリスチャンでもあった。身寄りのない患者の遺児を預かったのを機に医師をやめ、濃尾地震で被災した孤児を集めて岡山孤児院を創設した。その石井の講演を聞いて、孫三郎は激しい感動に包まれた。石井の事業を資金面から支えることになる。孫三郎は「余は余の天職のための財産を与えられたのである。神のために遣い尽くすか、或いは財産を利用すべきものである」と記した。
倉敷美観地区 (倉敷美観地区.中橋)
わしの眼は十年先が見える
 小学校さえ出ていない職工が多いのに驚いた。そこで職工教育部を設立し、翌年には文部大臣の認可を得て工場内に尋常小学校を設立した。地元の子弟を対象とした大原奨学会も始めた。
 石井の勧めで地元に新しい知識を呼び込む倉敷教育懇話会を始めたのはその翌年である。4年間続き実に76回を数えた。講師に、徳富蘇峰、新渡戸稲造、大隈重信など日本を代表する知識人が名を連ねた。
 倉敷紡績は地元資本の集合である。こうした諸施策は株主の反発を招いた。しかし、孫三郎は「健全な従業員こそが会社を発展させる力だ。従業員の生活を豊かにすることは経営者の使命であり、その施策は必ず会社に還ってくる」と押し切った。細井和喜蔵が『女工哀史』を書いたのは20年後の大正15年だから、いかに進んでいたかがわかる。大正15年には、人絹事業の将来性を見抜いて倉敷絹織(現・クラレ)を設立した。
倉敷美観地区
倉敷美観地区
マスカットや白桃の生みの親
大正7年の米騒動が岡山に飛び火したときには、孫三郎は米廉売資金を町に寄付して倉敷での米価高騰を防いだ。このように経営者となっても、「天職のために財産を遣い尽くす」姿勢は変わらなかった。
  大正12年には、従業員のために倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)を設立し、一般市民にも広く開放した。病人は社長も工員も平等であるという考えで小児以外は個室をつくらず、見舞品ももらえない人があるという理由で持込禁止とした
「十人の人間のうち、五人が賛成するようなことは大抵手遅れだ。七、八人がいいといったらもうやめた方がいい。二、三人位がいいということをやるべきだ」。
晩年は、素朴な民芸を愛し、昭和18年に大原邸で臨終を迎えた。62歳だった。これほどの事業を成し遂げたというのに、「自分の一生は失敗の一生だった」と總一郎に語ったという。
わが国初の西洋美術館・大原美術館
倉敷・本町
   (倉敷.本町 )
考古館(考古館)
宮本武蔵
宮本武蔵生誕の地
宮本武蔵
母は、播州の人で、別所林治という人のむすめであるが、武蔵を生んだ後、佐用郡の田住某に、再嫁したとも伝えられている。が、よく分かっていない。
聞いたことのある美作を通り遙か山を越えてたどり着く。バイトであろうか武蔵や小次郎に紛した若者が活躍し、ガイドをしている。(宮本武蔵 生家)
 宮本武蔵生誕の地
武蔵生誕地記念碑
武蔵神社

     (武蔵神社)

宮本武蔵の墓武蔵の墓
 武蔵の死後9年目に、武蔵の養子・伊織の手によって熊本、弓削の里から分骨され、両親の平田無二斉夫婦の墓と並んで上段に祀られています。今はこの近くまでしかいけませんでした。
赤穂
赤穂城

〜あら楽し、心は晴るる、身は捨つる、浮き世の他に、かかる雲無し〜
                      
(大石内蔵助辞世の句)
元禄14年(1701)3月14日、江戸城本丸松の廊下で
、勅使御馳走役の浅野内匠頭長矩(播磨国赤穂藩主、5万石)が高家肝煎(筆頭)の吉良上野介義央(三河国吉良、4200石)
に斬り付ける刃傷事件が起こりました。
「徳川実記」によれば「吉良は朝廷・幕府の礼節典故に
通じていることでは、当代その右に出るものがなかった。
そのた名門大家といえどもみな辞を低くして彼のご機嫌をとり、儀式のある度に教えを受けた、それ故、彼は賄賂をむさぼって莫大な財をなしたという。しかるに長矩は少しもへつらうことなくこの度の接待人を承っても賄賂を使わなかったので、
吉良はそのことを憎み、何事も長矩に告げ知らさず」とある
刃傷が起るまでにはこうした両者の確執があった。
元禄15年12月14日に、旧主浅野内匠頭長矩の仇である高家吉良上野介義央の屋敷に討ち入り約2時間の戦いのうえ吉良上野介を討ち取りました。吉良方は、死者17人、負傷者28人となりまた。赤穂方は、数名の負傷者を出したに止まりました。 この赤穂浪士47人は下は15歳から上は76歳までいた。
  

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