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歴史を積み上げた仏閣が時間を超えて生きている町を歩く旅。

 (2002年)  奈良・吉野の旅

志賀直哉宅素晴らしい環境にこの家は存在していました。
志賀直哉書斎 志賀直哉の庭
六畳の広さの書斎は、天井が葦張りの数寄屋造り。直哉は、ここで昭和12年長年手がけてきた長編小説「暗夜行路」を完結した。元東大寺住職上司海雲とは、特に親しく長い付き合いをした。
また、昭和8年獄中死した小林多喜二が、昭和6年志賀家を訪ね一泊している。
奈良の駅前から歩いて歩いてこの家にたどりつきました。途中で歩くのを止めようと思うくらい駅から遠かった。部屋ごとの説明を聞きながら窓越しに直哉をイメ−ジしました。志賀直哉は、大正14年京都山科からこの家に移った。現在公開されているこの家は、直哉自身が設計して京都の有名な数寄屋造り棟梁下島松之助が建てたものである。
直哉は、ここに昭和13年まで住んだ、
奈良
身代わり猿

  観光客の流れから離れて古い町並みが残っているという奈良町をめざして歩いていくと、軒下の提灯の後ろにぶら下がっているぬいぐるみは庚申信仰の「身代わり猿」で、日頃人の体の中にいる悪玉の「三戸ノ虫」が、庚申ノ日に抜け出して、天を支配する玉皇大帝(北極星)に告げ口をしますが、悪事がばれても「身代わり猿」が人に代わって玉皇大帝の怒りを全部受けて呉れます・・って書かれていた。そんな虫の良い話しがあるのかな?って思いました。それにしても各家庭にさげてありました。
法隆寺
法隆寺は修学旅行以来の旅でした。聖徳太子ゆかりの斑鳩の地にあり、現存する世界最古の木造建築といわれる金堂・五重塔などがいらかを並べる。1993年に世界文化遺産に指定された。
柿くへば鐘が
鳴るなり法隆寺

  正岡子規

法隆寺法隆寺塔法隆寺 金堂
東大寺ー「阿吽の呼吸」です。
東大寺仁王像 東大寺仁王像

室生寺
女人禁制の高野山に対して女性に門戸を開いたことから「女人高野」と呼ばれるようになった。
お土産屋が軒を連ね、多くの参拝者でに賑わっていました。
「女人高野」の名前に惹かれて行きましたが駅からかなり歩いて歩いて・・
ためいきが出るくらい歩きました。(2003年)

奈良時代に桓武天皇の病気平癒の祈願がされ、効果があったことから、勅命により作られたお寺です。
興福寺の大僧都「賢憬」が創建し、室生寺は奈良仏教界の山林修行の霊地となった。

室生寺 室生寺   

泪なくして語れない
源義経と靜御前の愛、そして別れを探す旅。

吉野
 (2002年3月)

金峯寺

金峯山(きんぷせん)寺
昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っています。
山号は国軸山、宇宙の中心の山という意味を号しています。
吉野は「神さぶる地」とされていました。
皇族方や藤原道長や頼通などの貴族が競うように金峯山詣でを行います。そして、多くの荘園や田畑が寄進され、吉野は大きな勢力を持ち、最盛時には山上と山下の蔵王堂を中心に百数十の塔頭寺院が甍を並べていたと云われています。後醍醐天皇をはじめ南朝方の経営は、このような勢力を頼みとされていたのです。南朝に尽くすことで吉野の勢力は一時まったく衰微するのですが、近世に入り、大坂・堺を中心とする一般庶民の山上参りが盛んとなり、あらためて吉野は修験の聖地として賑わいを見せていたのです。
大峯連山の北の端から、南に約8kmつづく尾根が吉野山。古来より日本一の桜の名所として名高いところです
吉野山の谷から尾根を埋める桜はおよそ3万本。下千本(吉野駅付近)から中千本
(如意輪寺付近)、上千本(吉野水分神社付近)、奥千本(西行庵一帯)へと花期をずらして順に咲きのぼる様子は壮観です
山を登る、、という言葉以外にない。

よしの山 みねのしら雪 ふみわけて いりにし人の あとぞ恋しき

しずやしず しずのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
歴史的にいっていろんな人が関わりを持っているけれども私にとっての吉野は源義経と静御前との別れだ。
静は磯禅師の娘。源義経の愛妾である。
 母親の磯禅師と同様に、京の白拍子であった。白拍子とは、女が男の格好をして、鼓に合わせて舞う舞、及びその舞い手のことである。義経には既に河越重頼の娘の正妻があったが、兄頼朝から押し付けられたこの女性を義経は煙たく思っていた。その反動も手伝ってか、義経は静だけを求愛するようになっていた。しかし、義経と頼朝との対立が二人を引き裂く。無断任官したことが原因で頼朝と不和を生じた義経は、京を落ちて静とともに西国へ逃れようとしたが、おりからの風雨で船が流されてしまった。義経は仕方なく、吉野山に隠れることにしたが、吉野は女人禁制。義経と静は、泣く泣く別れることとなる。義経は静に財宝とともに供の者を付けたが、この者が財宝を持ち逃げしてしまった。途方に暮れているところを、静は北条政子の父、北条時政の手勢に捕らえられてしまう。
義経との子供は女児なら助命すると言われたものの、不幸にして男児であったため、由比ヶ浜に沈められてしまう。
吉水院

明治のはじめ、後醍醐天皇、楠木正成、宗伸法印をまつる神社に改められました。吉野へ潜行された後醍醐天皇を、吉野大衆の中でも特に力をもっていた住職、宗信法印がお迎えし、吉水院は一時行宮となります。源義経が静御前や供のものと逃げのびてきたのも、太閤秀吉の花見の本陣となった。南朝の古文書や武具、秀吉の花見に使われた楽器など、100点を超える宝物が残っています。また、初期書院造りの傑作といわれる書院建築で、義経潜居の間、後醍醐天皇玉座の間、太閤秀吉花見の間があります。
よしみず神社
勝手神社

後方の袖振山は、大海人皇子(のちの天武天皇)が社前で琴をかなでられたとき、天女が袖をひるがえして舞ったという伝説で知られています。境内は、義経と別れた静御前が追手に捕えられ、請われて舞いを舞ったといわれる地。社殿は2001(平成13)年に焼失してしまいました。
  

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