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熊本城(くまもとじょう)は、現在の熊本県熊本市中央区に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。 最後に行ったのは20018年11月
別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」。

加藤清正が中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後の江戸時代の大半は熊本藩細川家の居城。
明治の西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、
現在の天守は1960年の再建である
現存する宇土櫓などの櫓・城門・塀13棟は国の重要文化財に指定されている。
また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。

熊本城 熊本城
熊本城 熊本城


天草
熊本市から車で約2時間、周りを海に囲まれた海辺の町天草。大小120にもなる島が存在する諸島で、熊本本土とは5つの橋で繋がっています。過去には南蛮文化やキリシタン文化が伝わった

天草
海が残念ながら見えない
雨でした。
有名は一号橋です。
ここから観光船が出ています。
天草
天草四郎ミュージアム

南蛮文化とキリスト教伝来の様子を映像

天草四郎を中心とした島原・天草一揆、自由平等を求めた戦いであったことを今に伝える映画やジオラマ

天草
長崎の建築家である鉄川与助が設計したゴシック様式の教会です。
別名“海の天主堂”ともいわれ、漁村景観も合わせて「国の
重要文化的景観」に選ばれています
崎津教会
天草
海上マリア像

ア津教会に近い岬に海上に向かってたつマリア像。キリストの御名と共に私たちの子孫に、いつまでも深い信仰のシンボルとなるよう、また、静かな時・荒天の日ここを往き来する船人、漁人達に海の道しるべ、心の灯となるよう多くの人々の協力を得て建てられた。また、マリア像の向こう側に沈む夕陽が、ロマンティックな雰囲気を演出し、天草夕陽八景の一つとしても有名。
天草 天草
大江教会
キリスト教解禁後、天草で最も早く造られた教会で、現在の建物は昭和8年(1933年)天草への伝道に生涯を捧げたフランス人宣教師ガルニエ神父が地元信者と協力して建立した。
丘の上に建つロマネスク様式の教会。
天草
「千厳山」は、熊本市から車で約1時間半の距離。頂上の展望台からは、
天草五橋を一大パノラマで見ることができます。
天草
巨大な天草四郎像も。藍のあまくさ村のシンボルで、高さは15メートルもあります
天草
天草
天草五橋は、九州本土の三角半島と天草諸島を結ぶ橋で、昭和41年完成です。三角から大矢野島・永浦島・大池島・前島を経て天草上島までに架けられている5本の橋をいいます。
 1号橋は、別名天門橋(てんもんきょう) 言います。連続トラス形式で、 五橋の中で最も海面からの高さがある橋です。
天草
与謝野夫妻歌碑
天草
一日目は雨
次の日は晴れて素敵な天草を見せてくれました。
感動しました。

鹿児島


小説「放浪記」「浮雲」などで知られる女流作家,
林芙美子の母親は桜島の古里町で暮らしたことがあり、
芙美子も幼いころの一時期を鹿児島で過ごしたといわれます。
「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」
林芙美子文学碑

桜島
錦江湾
林 芙美子(はやし ふみこ、1903年(明治36年)12月31日 - 1951年(昭和26年)6月28日)は、日本の小説家。
物心ついた小学生時代に貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、ことに名作がある。

当人は、生まれは下関と言い、生年は明治37年、誕生日は5月5日などとも書いて語っていたが、
没後20年余り経って、誕生の地は門司市小森江(現、北九州市門司区)との説が発表された
(ただし出生届は叔父の家の現・鹿児島市に明治36年12月31日誕生として翌1月に出ている)

実父は宮田麻太郎、母はキク。麻太郎が認知しなかったので、娘は『林フミ子』として、母方の叔父の戸籍に入った。
麻太郎は下関で競り売りやテキ屋をやって当て、1907年若松市(現・北九州市若松区)へ移って繁盛したが、
浮気して、母子は1910年、番頭の沢井喜三郎と家を出た。
養父と母は北九州の炭坑町を行商して回り、芙美子の小学校は長崎・佐世保・下関と変わった。
喜三郎は下関で古着屋を営んで小康を得たが1914年倒産し、11歳の芙美子は本籍地の鹿児島に預けられたのち、
旅商いの両親に付いて山陽地方の木賃宿を転々した。
1916年(大正5年)(13歳)、尾道市にしばらく落ち着き、翌年、市立尾道小学校(現・尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9F%8E
鹿児島

塩浸温泉龍馬公園
坂本龍馬が新婚旅行で訪れた際、逗留した塩浸温泉。
坂本龍馬は、慶応2年(1866年)1月23日深夜(新暦3月9日)、京都・伏見の寺田屋で伏見奉行所の役人に襲われ手傷を負う。
おりょうが、薩摩藩に救援をもとめ、その後未明、負傷している龍馬を発見し薩摩藩邸に運び込み治療に当たる。
しばらくして、小松帯刀、西郷吉之助の勧めもあり、薩摩で療養することになった。
日本で初めて新婚旅行に行ったといわれている
鹿児島 鹿児島
鹿児島
昭和2(1927)年、西郷隆盛没後50年を記念して建立が計画され、昭和12年に完成した銅像です。作者は郷土出身の彫刻家・安藤照。陸軍大将の正装の姿をうつしたもので、台座を含めた高さは14mあまりあります。
鹿児島
西郷隆盛洞窟
明治10(1877)年2月、鹿児島城下を出発した薩軍ですが、九州各地で転戦したのち、8月に解散。その後西郷隆盛の一行は九州の山間地を越えて鹿児島を目指し、9月1日、再び城下に戻り、城山に立て籠もりました。西郷が最後の五日間を過ごしたのがこの洞窟と伝えられています
鹿児島
西郷隆盛洞窟
鹿児島 鹿児島
西郷隆盛終焉の地
明治10(1877)年9月24日未明、城山を包囲した政府軍は一斉に砲撃を開始し、
薩軍は、敵陣目掛けて岩崎谷を駆け下り、最後の抵抗を示しました。
西郷隆盛は腰と太ももに銃弾を受け、この場所で別府晋介の介錯によって最後を遂げたと言われています。

宮崎 2018年11月
高千穂峡は、その昔阿蘇火山活動の噴出した火砕流が、五ヶ瀬川に沿って帯状に流れ出し、 急激に冷却されたために柱状節理のすばらしい懸崖となった峡谷。
この高千穂峡は、1934年(昭和9)11月10日、国の名勝・天然記念物に指定されています。

神話の国 高千穂へ

<FONT color="#ff0033">神話の国 高千穂へ</FONT>
天細女命
あまのうずめのみこと
高千穂
天手力男命 (あまのちからおのみこと)
高千穂
天岩戸神社 手刀男命
高千穂
高千穂峡

太古の昔、阿蘇山の火山活動によって噴出した火砕流が、長い年月をかけて侵食され、 観光客の目を圧倒する柱状節理や深いV字型の美しい峡谷を見ることができます。

高千穂
高千穂
古事記・日本書紀には天照大神(アマテラスオオミカミ)は弟の素戔嗚命(スサノオノミコト)の乱暴に怒り、天岩戸に籠もられた事が記してあり、その天岩戸を祀る神社と伝えられる。
高千穂 高千穂
天岩戸神社西本宮から岩戸川に沿って徒歩で約15分、天照大神(アマテラスオオミカミ)が岩戸にお隠れになったさい、天地暗黒となり八百万(やおよろず)の神がこの河原に集まり神議されたと伝えられる大洞窟、天安河原があります。
高千穂
高千穂峡の遊歩道の撮影ポイントとなっている「高千穂三橋」。趣の違うアーチ橋が一望でき、 一つの峡谷の一か所に三本ものアーチ橋を見ることができるのは全国でもここだけだと言われております
高千穂
2003年(平成15)3月に完成され、国道218号は高千穂町の町中をバイパスして通れるようになった。
高千穂
松尾芭蕉句 梅が春にのっと 日之出る 山路かな

鬼の洗濯岩

中新世後期(約700万年前位)に海中で出来た水成岩(固い砂岩と軟らかい泥岩が繰り返し積み重なった地層)が隆起し、長い間に波に洗われ、固い砂岩層だけが板のように積み重なって見えるようになりました。

青島から南の巾着島までの約8kmの海岸線に見られます