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幕末維新 松下村塾  1017年11月13日   萩
2017年11月13日 娘たちと行きました。


明治23年(1890)に吉田松陰を祀り、現在の拝殿は昭和30年完成。
境内には、松下村塾や吉田松陰幽囚ノ旧宅など、松陰ゆかりの史跡などが点在しています。


親思う こころにまさる 親ごころ
きょうの訪れ ンンときくらん

碑文は松陰の自筆を模写拡大
虎次郎は松陰の通称である。

松下村塾 幕末期に吉田松陰が講義した私塾。ここでは身分の区別なく学ぶことができ、高杉晋作や伊藤博文など幕末維新に活躍した多くの逸材を輩出しました。木造瓦葺きの平屋建てで、国の史跡に指定されています。
明治維新の先覚者・吉田松陰が主宰した私塾。松陰は海防の観点から工学教育の重要性をいち早く提唱し、自力で産業近代化の実現を図ろうと説きました。木造瓦葺き平屋建ての建物がそのまま残っています。

吉田松陰が伊豆下田で海外渡航に失敗し、江戸伝馬獄から萩野山獄へ収容された後に
預けられた実家・杉家旧宅。
ここで謹慎して読書と著述に専念し、やがて松下村塾で教えるようになりました。

旧宅の一角には「台柄(だいがら)」(=米搗き台)があります。
松陰はこの台上で米を搗きながら、読書をし勉強したそうです。

明治維新胎動の地

吉田松陰誘因の旧宅

毛利 輝元は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立された。長州藩の藩祖。

1604年、長門・萩城の築城を開始して居城とし、領国の米や五穀、特産品生産を奨励するなどした。1614年、大阪冬の陣では、密かに重臣・内藤元盛を、佐野道可と偽名を称させて大坂城に送り込んだが、
病を押して軍勢を率いて徳川勢についた。
1615年の大阪夏の陣においては、佐野道可こと内藤元盛を自害に追い込むなどして、毛利家を守っている。
毛利輝元は1623年に隠居が許されると、1625年4月27日、萩の四本松邸で死去した。享年73。

西南雄藩の一つである萩藩の政治・行政の中心であり、産業化や西洋技術の導入についての
政策形成の場でした。13代藩主敬親公は、萩反射炉や恵美須ヶ鼻造船所の建設を決定するなど、
近代産業化のきっかけを作りました。
現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、ここ一帯は国の史跡に指定されています。

萩城址
ぎじょうあとしづきこうえん
萩城跡指月公園

萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、
山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていました。
本丸には高さ14.5mの五層の天守閣がありましたが、明治7年(1874)に天守閣、矢倉などの建物は全て解体された


志都岐山神社 しづきやまじんじゃ
旧本丸跡に歴代藩主を祀る志都岐山神社が創建された際、総面積約20万uの境内が
指月公園として整備されました。
かつての県社で、毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳を5柱として、初代から12代まで萩藩歴代藩主が祀られています。

長州藩部隊 “奇兵隊” 結成!幕末の風雲児・高杉晋作

晋作誕生地の近くに建つ、若かりし頃のまげ姿の晋作像

銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージしており、
両刀を差した羽織、袴の立ち姿です。銅像の高さは1.8mで、台座を含めて3m。
晋作誕生地と萩城の方角を向いて建てられています。
また広場には晋作が好きだった梅の木も植樹されています。


高杉晋作誕生地
長州藩部隊 “奇兵隊” 結成!幕末の風雲児・高杉晋作
晋作は、天保10年(1839)に萩藩大組士、禄高200石 高杉小忠太の長男として生まれました。藩校明倫館に通う一方で松下村塾に通い、頭角を表し、久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称されました。
文久2年(1862)、外国に支配される清国(現:上海)を視察し危機感を抱いた晋作は、翌文久3年(1863)に身分を問わない我が国初の軍事組織“奇兵隊”を結成。討幕戦を勝利へと導きましたが、胸の病が悪化し、下関・吉田(現:東行庵)に隠居。慶応3年(1867) 結核のため、27歳と8ヶ月という若さでこの世を去りました。

木戸孝允旧宅 【萩城下町(旧町人地)】

西郷隆盛、大久保利通と並び「維新の三傑」と詠われた木戸孝允、別名“桂小五郎”の旧宅です。

安政2年(1855)に、木戸孝允(桂小五郎)が軍艦建造の意見を藩に提出します。
これらを受け、翌年には当時の藩主毛利敬親公が洋式軍艦を建造することを決定し、
2隻の洋式軍艦(丙辰丸(へいしんまる)・庚申丸(こうしんまる))が建造されました。

きどたかよしきゅうたく
桂小五郎の名でも知られ、“維新の三傑”と詠われた木戸孝允の旧宅。
生まれてから江戸に出るまでの約20年間を過ごした木造瓦葺の2階建ての家は、中に入ると、
誕生の間や幼少時代の手習いの書を表装した掛け軸、写真などが展示されています

木戸孝允は、天保4年(1833)、萩藩医・和田昌景の長男として生まれました。後に藩士・桂家の養子となり“桂小五郎”の名でも知られています。藩校明倫館に通い吉田松陰の兵学門下となり、文久2年(1862)藩の要職に就き京へと出て国事に奔走。慶応元(1865)年、藩命により姓を“木戸”と改め、翌年、坂本竜馬の仲介のもと薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らと“薩長同盟”を結び明治維新に尽力。維新後は、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などの推進に功績を残しました。明治10(1877)年、西南の役の途中で病死。享年45歳。

伊藤博文旧宅

松陰の門下生であり、初代内閣総理大臣となった伊藤博文の旧宅・別邸。
旧宅は、木造茅葺き平屋建ての約29坪の小さな家(外観のみ見学可)で、
隣接する別宅は東京に建てた広大な別邸の一部を移築したものです。



吉田松陰神社のおみくじ

伊藤博文別亭
別邸は、明治時代の宮大工の手によって建設されたものです。邸内は意匠に優れ、
大広間の鏡天井や離れ座敷の節天井は必見です
伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、
日本の武士(長州藩士)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と有職読みすることもある
)。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。
号は春畝(しゅんぽ)で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)を称して落款としても用いた。

周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。
維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、
大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、
初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、
外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により清國から朝鮮を独立させた(第一条)ことが特記できる。元老。
1909年、ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の韓国人安重根に暗殺された。

吉田松陰誕生地

「団子岩」とよばれる高台にあり、
松陰と文はこの地で生まれました。
現在は、大正時代に設置した間取りを示す敷石が残っています。
一角には松陰先生と金子重輔の銅像が建っています。

誕生地は、市内が一望できるビュースポット。
遠くに指月山と萩の城下を見渡すことができます。春には美しい桜並木が楽しめます。