松山城 |
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清盛さまよりお借りしました 平成30年1月
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松山城(まつやまじょう)は、愛媛県松山市にあった日本の城。別名金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)。
各地の松山城と区別するため『伊予松山城』と呼ばれることもあるが、
これは極稀なケースであり特別な事情を除いて一般的に「松山城」と指した場合は本項を示す[2]。
現在は、城跡の主要部分が公園として整備され、大天守(現存12天守の1つ)を含む21棟の現存建造物が
国の重要文化財に、城郭遺構が国の史跡に指定されている。そのほか、
昭和初期の1933年に大天守を残して焼失した、連立式天守群の小天守以下5棟を
はじめとする22棟(塀を含む)が木造で復元されている
1602年(慶長7年)、伊予国正木城(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明[4]が、
関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、
麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する平山城の築城に着手した[5]。
1603年(慶長8年)10月、嘉明が、この地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生した。
1619年(元和5年)、武家諸法度違反による福島正則の改易により、
幕府の命を受け、嘉明が広島城受領のため赴く。
1627年(寛永4年)、嘉明は、松山城の完成前に会津藩へ転封となり、
蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が、24万石の松山藩主になる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E4%BC%8A%E4%BA%88%E5%9B%BD)
引用させてもらいました。
松山城は市内のどこからでも見ることができるらしい。
振り向けば天守閣が見れるというのは素晴らしい。
賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一人として知られる加藤嘉明が、慶長7年(1602)に築城に着手。
25年の歳月をかけて完成させました。
確かに重々しく感じられた。
ロ−プウエイに乗ってあがりました。市内のすべてが見渡せました。
ホテルの窓からもライトアップされたお城が見えて城下町はとてもいいものだと思いました。
「日本で一番住みやすい地名は何処か?」そんな統計をとったら松山が一番だったらしい。
ただ雨の中、傘をさして自転車に乗る人が多いのには驚きました。車の運転が大変だと思いました。 |
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正岡子規は松山の出身。
野球という言葉に変えたのは彼らしいです。
35歳で結核で亡くなるまで、
病に倒れるまでとにかく旅にでるのが好きだったらしい。
大江健三郎は子規を「歩く人」と呼んでいます。何も食べられなくなっていく様子
を歌で読み、胸を痛くしました。
また彼の交友関係が広いのも彼の人間性によるところが大きいのだろう。
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★ 正岡子規
正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日(慶応3年9月17日) - 1902年(明治35年)9月19日)は、
日本の俳人、歌人、国語学研究家。
名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、
明治時代を代表する文学者の一人であった。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。
子規の俳句の中でも最も有名な句の1つ、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、
上京の途中で立ち寄った奈良で詠まれたものである。
子規は、「卯の花をめがけてきたか時鳥」、「卯の花の散るまで鳴くか子規」など、
時鳥(ほととぎす)の句を数十種作り、以後、「子規」と号するようになる。
時鳥は、「啼いて血を吐く」と言われ、肺病の象徴であった。
子規は、この時、「今より十年の命」(「喀血始末」)と覚悟したという。
「病牀六尺」の文
「病牀六尺、これが我世界である。
しかも、この六尺の病床が
余には広すぎるのである。
わずかに一條の活路を
「われほど多き野心を抱いて死ぬものあらじ」と漱石に手紙を書く。 |
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四万十川
レンタカーを借りて運転していきました。
上流は比較的直線的な急流、中流は大蛇行と多くの岩場、
下流はゆったりとした流れに加え、緩やかな蛇行と白い砂州が調和した
風景になります。その流れに沿って走れるところまで走りました。
車の片道通行しかできないような道路が多かったです。
坂本龍馬はこの道を通って脱藩したのだろうか?なんて考えながら。
この四万十川に足を入れてみました。暖かなぬくみさえも感じられました。
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