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四万十川の流れを求めての旅


三原〜今治〜松山〜四万十川の旅
2001年2月)

フェリ−を乗りついて広島空港から瀬戸内海の島々を見ながら今治に向いました。
来島海峡大橋は、第1、第2、第3の3つの吊橋が1本につながっています。
 だから三連吊橋と呼ばれています。二連吊橋は瀬戸大橋や、サンフランシスコにもありますが、
三連吊橋は世界で初めてだそうです。急潮海峡で名高い『来島海峡』を見ました。
鳴門海峡とどちらが荒荒しいのだろうか?その答えを見つけることはできませんでしたが
冷たい風に打たれながら流れ行く多くの島々をみていました。
多くの海賊が争っている姿を映画のシ−ンのように重ねていました。


広島県尾道市と愛媛県今治市の間に連なる芸予諸島は大小の島々が密集し、狭い海路に複雑な潮が流れる。
海賊にとっては格好の稼ぎどころだった。
「船に乗るな・潮に乗れ」 村上水軍にはこんなことわざが残されている。

村上水軍は
むやみに略奪するよりも通る船から通行料を取るほうが効率がいいと
「警固料」として積荷の十分の一の高額な税を取った。払う船は安全に目的地まで案内。
払わない船は襲った。

その島々に「しまなみ海道」が開通した。
通行料が尾道から今治まで10の橋を渡って車で1時間弱。
全区間を走ると4000円もかかる。
毛利家に味方して勢力を広げた村上水軍も
天下統一を果たした秀吉の海賊禁止令でやがて歴史の表舞台から姿を消した。
             (北海道新聞より)


野口雨情 野口雨情は「船頭小唄」や、『十五夜お月』『七つの子』『赤い靴』『青い目の人形』などを作詞したので有名です。
この場所にきっときたのだろうがその説明はかかれていませんでした。
「どうしてここに野口の碑があるのだろうか?。」って疑問に思いました

この写真でははっきりしていないが野口有情の歌碑です。

「狂い汐なりや
  来島瀬戸の
    汐もぜひなや
     渦もまく」
あいにくの天気でした。
見渡す限りの重い雲。
そして霧。
インスタントカメラですからはっきりは
しませんが
瀬戸内海の島々です。
瀬戸内海
松山 夏目漱石の「ぼっちゃん」であまりにも有名な「道後温泉」は朝から営業してて妙に感動しました
松山城 松山城は市内のどこからでも見ることができるらしい。
振り向けば天守閣が見れるというのは素晴らしい。
賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一人として知られる加藤嘉明が、慶長7年(1602)に築城に着手。25年の歳月をかけて完成させました。
確かに重々しく感じられた。
ロ−プウエイに乗ってあがりました。市内のすべてが見渡せました。
ホテルの窓からもライトアップされたお城が見えて城下町はとてもいいものだと思いました。
「日本で一番住みやすい地名は何処か?」そんな統計をとったら松山が一番だったらしい。ただ雨の中、傘をさして自転車に乗る人が多いのには驚きました。車の運転が大変だと思いました

正岡子規は松山の出身。
野球という言葉に変えたのは彼らしいです。
35歳で結核で亡くなるまで、
病に倒れるまでとにかく旅にでるのが好きだったらしい。

大江健三郎は子規を「歩く人」と呼んでいます。何も食べられなくなっていく様子を歌で読み、胸を痛くしました。
また彼の交友関係が広いのも彼の人間性によるところが大きいのだろう。
松岡子規
★ 正岡子規
正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日(慶応3年9月17日) - 1902年(明治35年)9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。
名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。

俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、
明治時代を代表する文学者の一人であった。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。
子規の俳句の中でも最も有名な句の1つ、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、上京の途中で立ち寄った奈良で詠まれたものである。
子規は、「卯の花をめがけてきたか時鳥」、「卯の花の散るまで鳴くか子規」など、
時鳥(ほととぎす)の句を数十種作り、以後、「子規」と号するようになる。
時鳥は、「啼いて血を吐く」と言われ、肺病の象徴であった。
子規は、この時、「今より十年の命」(「喀血始末」)と覚悟したという。

「病牀六尺」の文
「病牀六尺、これが我世界である。
しかも、この六尺の病床が
余には広すぎるのである。
わずかに一條の活路を


「われほど多き野心を抱いて死ぬものあらじ」と漱石に手紙を書く。
松岡子規の手紙

四万十川

レンタカーを借りて運転していきました。
上流は比較的直線的な急流、中流は大蛇行と多くの岩場、下流はゆったりとした流れに加え、緩やかな蛇行と白い砂州が調和した風景になります。その流れに沿って走れるところまで走りました。車の片道通行しかできないような道路が多かったです。
坂本龍馬はこの道を通って脱藩したのだろうか?なんて考えながら。この四万十川に足を入れてみました。暖かなぬくみさえも感じられました。
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