松前藩と北前船・江差と桜を探しての旅
松前 さくらが踊る、語る。舞う。5月4日の混んでいる連休に訪づれました。(2003年)
松前城(福山城)
五稜郭に入城した徳川遺臣軍は、捕虜として捕らえた松前藩士に「箱館来訪の趣旨と蝦夷地統治に関する
平和共存への協力依頼」を問うた書簡を持たせて松前に返した。
しかし、藩主松前徳広は、この藩士を節義に反するとして死罪に処し、五稜郭へは返事すらしない黙殺の態度を取った。
それに対し、榎本武揚は怒りを露にし、軍議により松前攻略が決定した。
土方歳三が統率し、700名の精鋭部隊は、松前を目指した。
夜明けと共に双方の砲撃が始まり、人口2万人の城下町はまたたく間に戦火にのまれていったという。
この松前城攻防を含め徳川遺臣軍と戦った松前兵は、必ず敗走の際に民家や村に火を放って逃げたので、後世の批判を受けている。
榎本の学んだ国際法知識を適用した徳川遺臣軍は、戦争に直接関係しない市民を巻き添えにしないよう配慮し、
俘虜として監禁した松前兵にも津軽行きの便宜を図ったり、町民・農民として生きる選択肢を与えるなど、
それまでの封建日本にない新しい考えを示した。【松前城資料館】
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アイヌ語の「マツオマナイ」これが松前です。 アイヌととの闘いに関しては「北海道の歴史」で触れているので省力しました。 18世紀には最盛期を迎えた松前には諸国の船が出入りし、そのにぎわいは「松前の春は江戸にもない」といわれたほどでした。 松前から江戸まで約1ヶ月。参勤交替は原則として1年おきだが、松前藩は遠隔地であることや北方警備などの事情が加味され、ほぼ5年に一度だった。 |
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「さくらの里」松前の桜はかって松前城下で財力を誇った商人や、
京の都から輿入れした藩主の奥方たちが故郷をしのんで植えたり、
藩主や侍たちが参勤交代のさいに江戸から持ち帰ったのがはじまりともいわれています。
現在その数250種8000本、名実ともに日本一のさくらの集植地になっている。
ここには八重桜が多いことも全国的に珍しいです。
![]() (血脈桜) |
![]() (染井吉野) |
![]() (孟宗竹) |
(ここに載せたすべての内容は松前町商工観光課の「松前」のパンフにから引用とさせていただきました)
福島町 |
![]() (千代の富士) |
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![]() 江戸時代に我が国初の実測日本地図を作った伊能忠敬(1745〜1818年)が北海道内の測量をスタートさせた地点である福島町に、 偉業をたたえる銅像と記念公園が完成した。 今年は没後200年に当たり、除幕された銅像を前に、鳴海清春町長が「福島町を訪れる多くの方に愛され 、親しまれることを願いたい」と期待を込めた。 高さ185センチの銅像はやや中腰で前を見据え、測量を開始する瞬間を切り取ったポーズ。 4月27日の式典には忠敬から7代目の子孫で洋画家の伊能洋さん(84)=東京在住=や、 忠敬の弟子の子だった榎本武揚のひ孫、榎本隆充さん(83)=同=らも出席。 洋さんは「ご先祖様がはるばる海を渡った時にどのような思いだったかを考えると感無量」と感謝した。 夜間もライトアップされる。 |
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当別・トラピスト修道院 |
![]() この道の表面がトラピスト修道院 |
Ora et Labora」(祈れ働け)をモットーに現在もほぼ、自給自足の生活をしています。その広大な敷地内には函館の観光土産としても有名なクッキー、バター、バター飴、ジャムを作る製酪工場、牛舎、牧草地、畑、温室、果樹園、木工所、なんと、ダムまであって、ないものを探すほうが難しいくらい。 写真でははっきりとしないかもしれませんが、この一本の道をあがりきった所に存在していました。 信仰の為とはいえ、この道を登っていく過程は一本の道ではなく何本にも交差していたはず。 この道に続く人生を選び、歩んで行った人に迷いはなかったのだろうか? 信仰心のない私は不謹慎にもそのように感じてしまいました。 大いなる喜びと光り輝く何者かに導かれて恐れなき日々を求めてこの門を叩いたのだろう。 |
![]() 峠から見たトラピスト修道院 日本のトラピストは女子が ●函館。 ●佐賀県 ●大分県に二つ ●栃木県 ●兵庫県 合計7つだと案内にありました。 |
![]() こんな一日を送っているそうです。 5時過ぎ 朝食 8時 作業 勉学 11時30分 昼食 17時45分 夕食 20時 就寝 鉄格子のわずかな隙間から写しました。 |
江差 言わずと知れた民謡「江差追分」で有名なまち! |
「開陽丸」に乗って時間旅行 「開陽丸」 「葵の枯れゆく散り際に開陽丸」と詠われた徳川幕府の巨船開陽丸。 オランダで建造されて僅か1年7ヶ月後の明治元年(1868年)11月15日に(いまの暦だと12月28日)榎本率いる旧幕府軍は箱館五稜郭を占領後、松前藩最後の防衛線である江差の攻撃をもくろみ、開陽丸で江差沖へ進みましたが暴風雪のために座礁してしまいました。 それから124年、平成2年4月に実物大で再現。 |
母屋と四番倉にはニシン漁全盛期のころに使用されていた生活用具などが陳列しており、当時の暮らし振りを今に仕える貴重な建物のひとつです。 http://www.h2.dion.ne.jp/~esashi/ 北海道檜山郡江差町字姥神町45 TEL(0139)52-0018 |