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高知といえば「桂浜」と「はりまや橋」そして坂本龍馬だろう!の旅
高知〜大歩危〜西祖谷村〜阿波〜明石海峡の旅

2001年11月15日。

高知 桂浜

(高知・桂浜)

どういう訳か坂本龍馬に憧れていました。
幕末の熱き時代に身を投じ、
33歳で命を落とすまでこの太平洋と似た志で
新しき日本を作らんとした、その生き方に感銘さえも受けていました。司馬遼太郎の影響を受けてしたのかもしれません。
この桂浜の上に立つ龍馬の銅像はあんまり男前過ぎてこちらが照れてしまいました。四万十川の清き流れにも似た潔い生き様は心を
強く打ちます。
さてこの左の懐には何が入っているのかが、いろいろと議論されています。ピストルなのか?
寺田屋で負傷した右手を入れてある?これが真実らしいが定かではない。太平洋に向って何を思っているのか?龍馬は高知城下の郷氏の家に生まれ、暮らしは非常に裕福だったと言われています。身分の低い龍馬は高地城を毎日見上げながらも、そこに登ることはできなかった。彼がよく行った親戚の家には当時まだ珍しかった世界地図があった。その地図をじっとみていたと伝えられています。龍馬の目は海の向こう、世界に目が向けられていた。
龍馬は大変におしゃれで着るものに気を遣っていたといわれています。
海外には行ったことがないからわからないけれど長崎よりも函館山よりも我が町札幌の藻岩山から見た、どこの場所よりも夜景がきれいに思えた。気持ちの上で神戸から四国に通じる意義を持つからなのかもしれません。 日本の歴史がすぐそこに横たわってる。それが一層の旅情をかもしだしてくれます。 西宮はすべての街道の起点だといいます。京都からの西国街道、そして門司へと続く山陽道を江戸時代の大名行列は20日から30日かかって参勤したという。 
これに見えるは明石の灯り。 
柿本人麻呂は「遠く離れた任地から旅をしてきたが明石の海の向こうに大和の国が見えた」
そう証言した明石の灯り。

明石の灯り

坂本竜馬の「脱藩の道」がはっきりとしたそうだ。
龍馬脱藩・ゆかりの道とは

 文久2(1862)年3月24日、脱藩の決意を固めた28歳の龍馬は、酒を持って「吉野に花見に行く」と言い残し、
同志・沢村惣之丞とともに土佐を脱藩しました。この「吉野」とは、現在、高知市神田字才谷山にある和霊神社周辺のことで、
当時は桜の名所だったそう。龍馬はこの和霊神社に立ち寄り、水盃をしたと伝えられています。
確かな足取りとしては、25日夕刻、梼原の那須俊平・信吾邸に泊まったという記述が唯一、信吾の手紙にある。

 文久2年3月24日、龍馬は一人、坂本家の守護神和霊神社を参ったという。
その夜、案内の澤村惣之丞と共に高知城下を出奔し、脱藩のため密かに西へ。

生まれ育った地を旅立ち、清流仁淀川沿いに開けた紙の町伊野町へ入る。
険しい山道にも立ち止まることなく、龍馬は激動の時代へ駆け抜けていった。
土佐藩家老深尾氏の城下町で、文教の地として栄えてきた佐川町。
龍馬は佐川町と葉山村の境にある朽木峠あたりを抜けたと考えられている。
吉村虎太郎や那須信吾ら、多くの勤王の志士を生んだ津野山郷。
龍馬の脱藩の道は、朽木峠を越え葉山村に入り、東津野村から梼原町へ至る。
険しい脱藩の道を行く龍馬は、3月25日夕刻、梼原町に入った。
梼原の那須俊平・信吾邸に宿泊したと、信吾の手紙に確かな記述がある。
梼原から韮ヶ峠を越え、野村町へ入る。龍馬は脱藩の第一歩を踏み出す。
五十崎町の泉ヶ峠から険しい道を下り、小田川を使って大洲へと向かった。
梼原町から九十九曲峠を越え城川町へ、そして坂石からは舟に乗り、長浜へ向かったとも言われる。
日本の夜明けを信じて、脱藩の志士達は維新への道を歩き続けた。
川舟に乗った龍馬は、大洲市を流れる肱川を下っていく。
3月27日長浜に着いた龍馬は一泊し、翌日長浜港から長州へ旅立って行った。

龍馬脱藩の道
この内容のル−トを北海道新聞にて読んだ時には驚きました。
地図を片手に走った地名がいっぱい出てきました。
「脱藩の道は実際には右の道だったかも、左だったかもしれない。でも大事なことは、この世を良くしょうと
人生をなげうった若者達がいたこと。われわれもそれぞれが立派な脱藩の道を持ちたい」 
  
                      (小椋坂本龍馬記念館長)

祖谷のかずら橋
国指定重要有形民俗文化財

吉野川
(吉野川)
平家の落ち武者が隠れていたという大歩危の吉野川。
平家が壇ノ浦で破れてからここに隠れて住み、かまどの火さえも炊かないでひっそりと暮らしていたという大歩危。この四国一の大河、吉野川は深い山を縫って流れている。昔から人を容易に近づけないような険しい山が多いことで有名だ。その代表が大歩危、小歩危にと呼ばれる難所で、昔から旅人にとっては歩くこともままならない。危険な谷だったことからその名前がついたらしい。
写真はないけれども山の中の辺鄙なところで落ち武者がたしかに暮らしていたという。
平清盛の跡をついた宗盛は壇ノ浦で皆が海の中に飛び込んでいくのに飛び込まないので家来が後から海に落としたという逸話を思い出す。
この絶妙な色を何って表したらいいのだろう。

祖谷のつりばし
祖谷渓随一の見所として名高い古風な吊り橋で、日本三奇橋のひとつ。山野に自生するシラクチカズラを利用して組まれており、国の重要有形民俗文化財にも指定されている。橋の長さは約45m、幅約2mで、渓谷を吹き抜ける風にゆらゆら揺れて、足もとを踏みしめながら渡る人々の嬌声をさそう。本当に凄かったです。 日本三奇橋のひとつだというので調べてみたら・山口県錦川・錦帯橋  山梨県桂川・猿橋 をいうらしいです。ただ渡るだけで500円でした。

人の世の無常をかみしめ。
土佐日記紀貫之
紀貫之は土佐守となり任地に赴任しました。今でいえば高知の知事に当たります。
「土佐日記」は承平4年12月、国司の館を出発してから、京の自邸に着くまでの55日間にわたる旅日記となっています。
 「土佐日記」はひらがなで書かれた最初の日記文学です。
それまでの日記は公的立場の男性が政務や行事の記録を漢文で書くというものでした。

紀貫之は足かけ五年、ここ土佐国府に土佐守として赴任していましたがすでに60歳を超えていました。
「新選和歌集」の編纂を命じられており、使命感に燃えての赴任でもあったが
醍醐天皇や宇多上皇・京で生まれた娘を土佐で失うという悲しみに遭う。
任期を終えて土佐から船で京の都に向かいます。
69首の和歌を綴っています。

日記には「海賊が襲ってくるといううわさはあるし、海も恐ろしくて髪もすっかり白くなった」と記す。
当時、国司は地方赴任中に蓄財し、それを京に持って帰るのが一般的だった。

京に辿り着くが、有力な支援者はすでになく
世の無常をかみしめながら日記を完成させた


「男もすなる、日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」

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