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魔界京都を信じています。多くの歴史の舞台となった京都を探しての旅。


京都,そして大津の旅
      八坂の塔      

          京都ではいろんな所が好きだけれども地味でインパクトのある「八坂の塔」が好き

叡山電鉄
  (叡山電鉄)
出町柳から一日券を買って鞍馬山に行きました。
この叡山電鉄に乗っていけば三千院に通じるそうな、、
そのまた北にいけば北陸だ。朽木を通って小浜。鯖街道。その小浜は「北海道から船昆布を積んできた北前船の寄り道でもある。歴史の中心舞台であったから京都からは何処にでも簡単に行けそうな気がします。

 時間が迫っていて鞍馬山のロ−プウエィに乗れなかったけれどもここで源義経が幼少時代をすごしたのだと思うと感慨を深くしました。 どうも半官ひいきになっています。彼の肖像画は想像を寂しくさせてしまうけれども。幼きころに父母と分かれ、そして怒涛の人生を送らなければならなかった戦国の習し。兄弟も親子もない。そんな時代に生き、そして時の運に見放されてのまれてしまった。だけど何処かで、心の何処かで信じているんです。きっと、いや、絶対に蝦夷地に渡ってきたに相違ないと。
多くの血が流され、歴史の時間を積み重ねてきたであろう鴨川。昔はどのようなものだったのか?想像もつかないけれど、ここには哀しい血が流れているのに違いない。
だから「魔界京都」を信じています。
必ず人間の怨念は生きているはずだと。
上洛を目指して京を目指して
戦国の武将たちは生きてきました。
自分の人生をさいてこの加茂川をみれなかった武将たち。信長も坂本龍馬もこの京都に生きていました。
だから京都が好き!
それにしてはここは今はデ−トのカップルでいっぱい。
堤防に座って川に向かって並んでいる姿をみたら私の信念はくずれてしまいそうになりました。
時代は流れても声なき声を心で聞きたいと思った。
鴨川   
     ( 鴨川 )           
哲学の路
哲学の道
「哲学の道」誰がつけたのかはっきりしていないと云う。
京都大学の教授だった西田幾太郎もこの哲学の道を歩きながら人生とは如何なるものかを語った。
疎水にそう約500本の桜並木。
それにしても桜が爛漫。
日本人と桜、、感性が合うらしい。
昔は花といえば梅や桃だったらしい。
どの花も力いっぱい咲いていて素晴らしい。
寒い時期を乗り越えて力を蓄えて咲くから人の心をうつのだろうか?
スマップの「世界に一つだけの花」の歌詞を思う。
花はそれぞれに自分の美しさを誇らない。
自然にありのままに咲いているのだ。
この哲学の桜も山中の山桜も。
(哲学の道)
円山公園と桜
円山公園と桜 平成28年ひろ様より頂きました。
東寺と桜
東寺と桜 平成28年ひろ様より頂きました。

金閣寺金閣寺、清盛さまからお借りしました。

水プロジェクト→明治維新後の遷都でさびれゆく京都に活力を与える為。
この桜も疎水の流れがあってこその美しさである。「哲学の道」と切り離すことのできない琵琶湖疎水。
実は北海道と深いつながりがあった。琵琶湖疎水の卒論を書いた田辺朔郎を抜擢し、建設事業を提案したのは

1881年京都府知事に就任した北垣国道である。東京遷都で人口は減り、産業は衰退し、沈みきった京都。
「往時の活力を取り戻したい」とのいきごみで琵琶湖疎水に取りくむ。
1891年、日本初の水力発電所が蹴上に完成。
この電力を利用して新しい工場が次次と生まれわが国で最初の路面電車が走るようになった。
京都は活力を取り戻した。
 この二人はその後北海道へと渡る。北垣は4代北海道長官として、田辺は鉄道建設のためである。
北垣は小樽港近代化の礎を築き、函館〜小樽間の鉄道建設に尽力する一方で
勝海舟や坂本龍馬ともつながりのある人物だった。
もう一人忘れてならないのは京都出身の青木政徳である。彼は琵琶湖疎水の工事で名をあげ、
道庁に移ってからは小樽港の工事に全力を注いだ。
「自ら潜水服をまとって海底にもぐり、波とうの力や礎石の状態を調べてコンクリ−トの打ちこみを指揮した。
その無理がたたって工事の完成をみることなく、35歳の若さで亡くなった。
小樽港を見下ろす手宮公園には青木の功績をたたえる碑が建つ。 (北海道新聞より)

貴船 貴船

蛍 岩 「蛍岩(ほたるいわ)」

和泉式部(いずみしきぶ)が貴船神社に参詣して恋の成就を祈り、
「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」と有名な歌を詠んだのが、この蛍岩近辺の光景だといわれ、今も蛍の名所となっています。

和泉式部がここまでやってきたのは、冷めかけた夫の愛を取り戻そうとしたものだった
宇治 平等院
宇治 平等院
宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から
貴族の別荘が営まれていた。
現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で
嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、
天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の
別荘「宇治殿」となった
宇治 平等院

道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、
宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。
開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。
創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。
翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような
阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。
大徳寺
大徳寺

大徳寺には大仙院(だいせんいん)など普段でも拝観できる塔頭と
黄梅院(おうばいいん)など非公開の塔頭がある。
応仁の乱で焼失し、15世紀に一休禅師が復興した臨済宗大徳寺派の大本山。
国宝の方丈、唐門、重文の法堂、勅使門などのほかに塔頭が21並ぶ大寺。
これらは戦国武将らの寄進で、秀吉は信長の葬儀をここで行った。
重文の山門は、楼上に千利休の木造を置いたことが秀吉の逆鱗にふれ、
利休が切腹を命じられたことで知られる。堂内、庭園は特別拝観時のみ公開
三門は連歌師宗長が再建したものをさらに利休が今日見るような重層の三門に修造した。
茶といえば大徳寺、「大徳寺の茶づら」といわれる。
茶はもともと栄西が中国からもたらしたものゆえ、禅宗につきものと考えられる。
高桐院
千利休邸を移築した書院細川忠興が建てた塔頭。
忠興と妻のガラシャ婦人の墓は、利休から遺贈された石灯籠を墓石にしている。
出雲の阿国の墓がある。
前から一度、行ってみたいと思っていた三井寺。
歴史のある町を尋ねての旅。
琵琶湖疎水に沿って山を登るような気持ちで行くと山門。

壬申の乱で敗れた弘文天皇の菩提を弔うため、皇子の大友与多王が天武15年(686年)に寺を建立したのが
創始と伝えられている。当初は大友氏の氏寺だったが、平安時代に比叡山の智証大師が寺を復興して
延暦寺の別院としたといわれている。伝教大師(最澄)の死後、比叡山の慈覚大師と園城寺の
智証大師の対立が激しくなり、園城寺はしばしば焼かれた
 この対立が結果として、高僧の輩出、寺の発展を促し、東大寺、興福寺、
延暦寺と共に園城寺は四大寺の一つに数えられるようになったという。
園城寺の名よりも一般には三井寺の名でよく知られているが、この名称は天智、
天武、持統の三天皇の産湯に使われたと伝えられている井戸があることに由来して、
御井の寺とよばれ、これが後に三井寺と言われるようになったとされている。

円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦四年(993)、
円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と
称し天台宗は二分されました。
その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難にあう 
園城寺園城寺
もしも夢が叶うものならいつかこの地に住んでみたいと思う。夢は限りなくあふれているように思った。この琵琶湖の水が京都の方まで流れ、そして疎水と言われているようです。多くの人達がこの湖面にボ−トを浮かべ、其々の弧を描いている。そこにはまさに人生を楽しむ躍動に満ちていました。琵琶湖大橋で繋がれた向こうは比良。
七月の中頃。比叡山回峰行が始まる。
蓮華笠に淨衣と呼ばれる真っ白な装束の回峰行者の一行が聖なる山を目指す。行者たちが目指すのは比叡山の北に連なる比良山山中の葛川明王院である。
そこには、回峰行の始祖・相応和尚が開いた修行道場があるらしい。そこからこの琵琶湖を眺めて
何を悟らんが為に修行に励んだのであろうか?
三井寺からもこの琵琶湖を眺めた。多くの歴史が今も時間を超えて生きています。
琵琶湖

      (琵琶湖大橋)
谷崎潤一郎のお墓
谷崎潤一郎のお墓

「空」には松子夫人の妹重子夫妻の墓、
「寂」には潤一郎夫妻が眠っている
潤一郎が生前に求めたもの.(京都鹿ヶ谷法然院墓地)

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