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北條五代が眠る町。かまぼこの町

 

小田原の旅
「海よし山よし天気よし」=明治の文豪「斉藤緑雨」
城下町としての小田原を作り出したのが、15世紀末から16世紀末までの百年間、
五代にわたって小田原を中心に東国を支配した小田原の北条氏でした。

小田原城

★ 1代目 北條早雲といいならわしているが、早雲自身は一度も北條を名乗ったことはなく、伊勢新九郎で通し、出家して早雲庵宗瑞(そうずい)と号している。
西相模の要衝だった小田原城主大森氏頼(うじより)が死んだ。
氏頼を相手にするのは難しいとみていた早雲も、氏頼の子藤頼の時代になったことで、具体的に小田原城攻めの作戦を練りはじめている。「ころあいよし」とみた早雲は、あるとき一通の手紙をしたため、藤頼に届けさせている。その文面は、「伊豆で鹿狩りをやっていたら、鹿が皆小田原城の裏山に逃げてしまった。伊豆に追い返すため、勢子(せこ)を入れさせてほしい」というものであった。
それが早雲の謀略であることに気が付いていない藤頼は、二つ返事でこの申し入れを許可している。そして、明応4年(1495)9月、勢子に化けた早雲の一隊が、小田原城の裏山から一気に小田原城を攻め、藤頼は城を支えることができず落ちていったのである。このとき早雲は六十四歳だった。88歳で没す
北条早雲像
★ 5代目 北條氏直 秀吉の力が強大化してきたとき、単独では抗することが不可能と判断し、徳川家康・伊達政宗との同盟を強化している。つまり、後北條氏を軸にした徳川・後北條・伊達同盟である。秀吉の西国国家に対する東国国家をもくろんでいた氏直は、家康の二女督姫を娶っていた。しかし、家康からは、「秀吉に頭を下げないなら、督姫を返してほしい」と求められており、氏直は督姫と離別し、秀吉への敵対路線を選択したのである
翌十六年(1588)四月、秀吉は後陽成天皇を自分の城である聚楽第に招き、全国の諸大名にも列席を命じた。このとき、上洛したかしないかが、秀吉に臣従するかしないかの踏み絵となったのである。この聚楽第行幸に、氏政・氏直父子は列席しなかった。ここで、秀吉の次のターゲットが後北條氏に絞られたのである

秀吉は、小田原全体を見下ろせる笠懸山に対(たい)の城)として一つの城を築かせ、そこを本陣とした。これがいわゆる石垣山一夜城である。
小田原城包囲の戦いは天正十八年(1590)四月三日から始まり、結局、七月五日、氏直は開城して降伏した。秀吉は、氏政・氏照兄弟、それに老臣大道寺政繁、松田憲秀に切腹を命じ、氏直は高野山に追放された。
   北原白秋童謡館 
 北原白秋童謡館
小田原文学館の別館として、
平成10年10月1日にオープン。
 

(北原白秋の童謡館)            
白秋と童謡
白秋が童謡を創るきっかけは鈴木三重吉の児童雑誌「赤い鳥」に童謡の担当として参加したことでした。
大正11年に長男隆太郎が生まれると童謡に対する思いは膨らむ。
白秋は「揺り篭のうた」についてこう云っています。
「私は一人で楽しんで歌い・赤ん坊のお母さんにも歌わせ、
揺り篭をゆすり、乳母車を押し、寝床まで歌って聞かせました。
白秋は「赤い鳥」だけでなく大隈重信主催の「大観」や作曲家の山田耕筰と共に創刊した「詩と音楽」など、他の雑誌にも作品を発表しています。
また、「赤い鳥」で毎号1編から2編の創作童謡を発表するだけでなく、新作童謡を募集して優れた童謡作家を世に送り出し、また各地のわらべ唄を蒐集、整理するなど、日本の童謡文化確立に精力的に取り組み、大きな足跡を残しました。



小田原文学館 
(小田原文学館
「海よし山よし天気よし」
明治の文豪斎藤緑雨は小田原をこう評しました。その温暖な気候ゆえに、昔から大変住みやすいところとされ、明治時代には伊藤博文や山県有朋など政界の重鎮はじめ、多くの人々が別荘を建て、保養地として、また居住地として小田原にやってきました。
その中には文学者の姿も数多く見られ、北原白秋のように家族の療養のために訪れたもの、坂口安吾のように寒さから逃れるために来たもの、中には人の目から隠れるようにやってきた文学者もいて、その数は著名な作家だけでも十数名にのぼります。
主なゆかりの文学者 ジャンル 代表作
北原 白秋 詩人 「雲母集」「とんぼの目玉」
北條 秀司 劇作家 「王将」「建礼門院」
谷崎 潤一郎 小説家 「細雪」「刺青」
斎藤 緑雨 小説家 「油地獄」「門三味線」
三好 達治 詩人 「測量船」「艸千里」
坂口 安吾 小説家 「真珠」「白痴」
写真では読めないと思いますが、童謡碑には『赤い鳥小鳥』の歌詞が刻まれています。この童謡碑は二つ作られ、もう一つは白秋が「木菟の家」を建てた伝肇寺の境内にあります
北原白秋童謡館

赤い鳥、小鳥
なぜなぜ赤い
赤い実を食べた。

白い鳥、小鳥
なぜなぜ白い
白い実を食べた

青い鳥、小鳥
なぜなぜ青い
青い実を食べた。 「赤い鳥小鳥」
1階の和室に展示してある「木菟の家」の10分の1模型です。
小田原へ来る前に、しばらく小笠原諸島で過ごした白秋が小笠原諸島の
民家を模して作らせ、「木菟の家」と名付けたものです。
正面から見るとドアが鼻、左右の窓が目
みみづくってどんな感じか思い出せません。


北原白秋童謡館
小田原時代の主な童謡
★りすりす子栗鼠 ★雨 ★お祭り ★赤い鳥小鳥 ★あわて床屋 ★ちんちん千鳥 ★鐘が鳴ります ★げんげ草  ★砂山  ★からたちの花 ★ペチカ ★待ちぼうけ ★かえろかえろ ★この道 ★あめふり

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