いざ!鎌倉
「1192作ろう鎌倉幕府」で暗誦しました鎌倉へ
「美男におわす」と与謝野晶子に詠わせた鎌倉の大仏様は、奈良の大仏様となにかにつけ比較されますが、
奈良の大仏さまが権力の象徴として造られたのに対して、こちらは多くの庶民の勧進によって造営された。
宝阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏)を本尊とする浄土宗の寺。
大仏は青銅製で、台座を含め高さ13.35メートル、顔の長さ2.35メートル、目の長さ1メートル、耳の長さ1.9メートル、重量約121トン。
暦仁元年(1238)に着工され、6年後に完成した。しかし、最初の大仏は木造であったため台風によって崩れてしまい、
その後建長4年(1252)から青銅の大仏が鋳造された。
「鎌倉や御仏(みほとけ)なれど釈迦牟尼(しゃかむに)は美男におわす夏木立かな」 与謝野晶子文学碑 |
鶴岡八幡宮 |
平治の乱(平治元年 1159年)後、伊豆に流された頼朝は、治承4年(1180年)に兵を挙げましたが、石橋山の戦いに敗れ、船で房総半島に渡りました。 |
報国寺 浄明寺2-7-4 |
本堂の裏手にある竹林 |
|
木下利玄(1886.1.1〜1925.2.15) 白樺派の歌人。 最後の足守藩主木下利恭の弟利永の二男で、5歳で養嗣子となり木下宗家を継いだ。 学習院を経て1911年(明治44)東京帝国大学国文科を卒業したが、 在学中の1910年(明治43)に武者小路実篤や志賀直哉らと「白樺」を発行、散文や短歌を発表した。 大阪住吉でしばらく過ごした後鎌倉に居を構えました。大正14年結核のため40歳でこの世を去ります。 木下利玄記念歌碑 あるき来てものゝふ果てし岩穴の ひやけきからにいにしへおもほゆ 菅原義道之を建つ |
江ノ島、長谷 湘南の光と風 「湘南モノレール」は、江の島から大船を結ぶ。途中の山あい一帯の高級住宅地が鎌倉山。 昭和初期、日本初の住宅分譲地として開発され、今日に及んでいる。 毎年多くの海水浴客が訪れる江の島も江戸の頃からの観光地。 |
あまりにも有名な江ノ島 夜になるとホテルの窓から江ノ島灯台が灯りが回っているのが見えました。 雨の日でもサ−ファがいっぱい、遊んでいました。 キムタクやサザンを思い出していました。 七 |
長谷にて初めて人力車に乗りました。 20歳の若者がひく人力車でした。 きっと体重が重いからきつい仕事になったのでは ないかと思います。彼の話によるとこの長谷ではお金持ちとして有名なお宅でこの辺の地主だということです。 |
東慶寺は、近世を通じて群馬県の満徳寺と共に「縁切寺(駆け込み寺)」として知られていた。江戸時代、離婚請求権は夫の側にしか認められていなかったが、夫と縁を切りたい女性は、当寺で3年(のち2年)の間修行をすれば離婚が認められるという「縁切寺法」という制度があった。幕府公認の縁切寺として、江戸から多くの女性が東慶寺を目指した。ただし、女性が駆け込んできてもすぐには寺に入れず、まずは夫婦両者の言い分を聞いて、夫が離縁状(いわゆる「三下り半」)を書くことに同意すれば、すぐに離婚が成立したという。また、実際には離婚に至らず、調停の結果、復縁するケースも多かったという。この制度は、女性からの離婚請求権が認められるようになる明治6年(1872年)まで続いた。 |
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条貞時、開山(初代住職)は覚山尼(かくさんに)である。 |
鎌倉文学館の案内がいたるところで目につきました。 今回の企画は「愛の手紙」でした。 その内容に惹かれて入ってみました。 鎌倉は、万葉集にゆかりの歌が収録されているのでも知られるように、古くから文学の中にその地名がみられます。明治期になると寺社が多い鎌倉には参禅のため、また『文学界』の指導者であった星野天知の笹目山荘があったことから、多くの文学者が訪れるようになります。 さらに、明治22年に横須賀線が開通したこともあって、文学者の居住、滞在、来遊などが急に増えました。 明治・大正以後、参禅や療養のため逗留した文化人、文学者に加え、東京の都市化につれて、風光のよい環境を求めて、住居を鎌倉に構える文学者が多くなりました。 立原正秋・円地文子・久保田万太郎がいます。 |
|
噂に聞いていた江ノ電。 民家のぎりぎりのところを通るために江ノ電を降りて自分の 家に帰るには江ノ電の線路を堂々と?通っていいのだそうです。 この写真のフエンスの向こうは江ノ電。 このようになっているのだと人力車のお兄さんが説明して くれました。 毎日横浜から通って長谷まできているそのお兄さんに聞いてみました。仕事は鎌倉市内の方はお金になるのではないかと?そうしたら鎌倉市内は観光客が多すぎて走りにくいそうです。彼が曰くにはこの長谷が一番です! |
|
川端康成が住んでいたお宅です。 |
川端康成は、明治32年(1899)大阪に生まれました。医師だった父と2歳で死別。その半年後に母も逝去。祖父母に引き取られる。その後、祖母・姉・祖父が相次いで亡くなり、13歳で孤児となってしまいます。寮生活を続けながら、第一高等学校、東京帝国大学へと進みます。 「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」「古都」などの名作を発表し、昭和43年には、日本人として初のノーベル文学賞を受賞します。湯川秀樹らの世界平和アピール七人委員会に加わり、さまざな問題に関心をよせました。 鎌倉には、昭和10年から浄明寺に住み、二階堂では蒲原有明の家に、昭和12年から21年に長谷へ移るまで居住しました。 康成は頼まれると一休の「仏界移入 魔界難入」を好んで書いたという。 ノ−ベル賞4年後に逗子にて(昭和47年4月16日)仕事場のマンションの自室の4階417号にて、ガス管を口にくわえて自殺した。死亡推定時刻午後6時頃72歳だった。 |
平成22年10月に友人の一周忌の後で。