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(2008年1月22日)

「せせらぎの街」三島

 稲作により里は人の集まるところとなり、奈良時代には伊豆の拠点となっていきます。
 三島明神の遷宮も町をさらに発展させる要因となっています。
 伊豆一円からの信仰は、明神を核として発展を遂げつつあった三島を伊豆の都として押し上げ、
 三島は伊豆の宗教的中心地だけ出なく、産業、文化の中心地として発展していきます。

三島の湧水は、三島溶岩流の先端下から湧きでた富士山の被圧伏流水(上下を不透水層で羨まれた帯水層を満たしている地下水。)
と考えられています。

三島市役所より引用(http://www.city.mishima.shizuoka.jp/)

頼朝の腰掛け石 頼朝の腰掛け石

(三嶋大社)

源頼朝が三嶋大社に百日祈願をしていた時のこと。
参拝後、頼朝はつねにこの石に腰かけて休んでいたと伝えられています。
となりは、政子が腰かけた石だといわれています。

江戸時代、五街道などの宿場に設けられ、大名・公家・幕府役人などが宿泊した施設のことを本陣といいます。

本陣の建物は門構え、玄関、上段の間、控えの間などの部屋や湯殿、庭がある広大なものでした。
東海道沿いに樋口本陣と世古本陣の二つの本陣があった。
世古本陣

水辺の文学碑

小出正吾碑
小出正吾碑

楽隊の音が聞こえてきた、
ジンタ、ジンタ、ジンタッタ・・・・・・
ジンタの楽隊がやってきたのだ!
子どもたちは、小鹿のようにかけだした。
ジンタの行進は、となりの町の沼津から
三島の町へのりこんできた。
はなばなしい旗やのぼりも先頭に、
クラリネットに、コルネット、大太鼓、小太鼓という一隊で、
そろって白い羽かざりのついた赤いぼうしをかぶっている。
それが、町じゆうをゆすぶるようなおおきな音で、
あのなつかしの曲「美しき天然」を
演奏しながらくりこんできたのである。
                   「ジンタの音」より
小出正吾は三島出身の児童文学者
碑文にある「ジンタの音」は野間児童文芸賞
大岡 信碑
大岡 信碑

地表面の七割は水
人体の七割も水
われわれの最も深い感情も思想も
水が感じ水が考えてゐるにちがいない
          1989年「故郷の水へのメッセージ」より

十返舎一九 碑

日も暮れに近づき、入り相の鐘かすかに響き、
鳥もねぐらに帰りがけの駄賃馬追ったて、
とまりを急ぐ馬子唄のなまけたるは、
布袋腹の淋しくなりたる故にやあらん。
このとき、ようやく三島の宿へつくと、
両側よりよびたつる女の声々・・・・・・
女 「お泊りなさいませ、お泊りなさいませ」
弥次 「エエ、ひっぱるな、ここを放したら泊まるべい」
女 「すんなら、サァ、お泊り」
弥次 「あかんべい」
・・・・・・喜多 「いい加減に、此所へ泊まるか」
女 「サァ、お入りなさいませ、お湯をお召しなさりませ」
弥次 「ドレ、お先に参ろう」・・・・・・とはだかになり、かけだす。
女 「モシ、そこは雪隠(せっちん)でござります、 こっちへ・・・・・・」
弥次 「ホイ、それは」と湯殿へゆく。
               東海道中膝栗毛  享和二年(1802年)

十返舎一九
井上靖
井上 靖碑

三島町へ行くと
道の両側に店舗が立ちならび、
町の中央に映画の常設館があって、
その前には幡旗が何本かはためいていた。
私たち山村の少年たちは、
ひとかたまりになり、
身を擦り合わせるようにくっつき合って、
賑やかな通りを歩いた。
              「少年」より
司馬遼太郎
司馬遼太郎 碑

この湧水というのが、
なんともいえずおかしみがある、
むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、
溶岩流が奔って、今の三島の市域にまできて止り、
冷えて岩盤になった。
その後、岩盤がちょうど人体の血管のように
そのすきまに多くの水脈をつくった。
融けた雪は山体に滲みいり、水脈に入り、
はるかに地下をながれて、
溶岩台地の最後の縁辺(はし)である三島にきて、
その砂地に入ったときに顔を出して湧くのである。
                「裾野の水、三島一泊二日の記」より
太宰治
太宰治 碑

町中を水量たっぷりの澄んだ小川が
それこそ蜘蛛の巣のやうに
縦横無尽に残る隈なく駆けめぐり
清冽の流水の底には
水藻が青々と生えて居て
家々の庭先を流れ縁の下をくぐり
台所の岸をちゃぶちゃぶ洗ひ流れて
三島の人は 台所に座ったままで
清潔なお洗濯が出来るのでした。
          「老ハイデルベルヒ」
若山牧水
若山牧水 碑

宿はずれを清らかな川が流れ、
其処の橋から富士がよく見えた。
沼津の自分の家からだと
その前山の愛鷹山が
富士の半ばを隠してゐるが、
三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、
富士のみがおほらかにあおがるるのであった。
克明に晴れた朝空に。
まったく眩いほどに その山の雪が輝いてゐた。
                  「箱根と富士」(大正九年)より
窪田空穂 碑

水底にしずく圓葉の清き藻を
美し射る光のさやかに照らす
              歌集 「卓上」の灯」より
飯尾宗祇 碑

室町時代連歌師飯尾宗祇【いのおそうぎ】    
すむ水の清きをうつす我が心

「古今伝授」とは「古今和歌集」の解読・解釈を伝えたもの
平安時代末、藤原基俊から俊成・定家…と
代々二条家に伝えられ、次いで東常縁に伝わり、宗祇に伝授されたことにより成立した歌の道の宗匠。

1502年、江戸へ下り、次いで駿河へ向かう途中の7月29日箱根湯本で急逝、遺骸は富士を愛した宗祇の遺言により定輪寺(裾野市桃園)に葬られた。



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