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世界遺産 石見銀山

平成18年11月13日 娘に連れていってもらいました
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E9%8A%80%E5%B1%B1より引用させてもらました。

石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。
上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされる
大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)とも呼ばれた。明治期以降は枯渇した銀に代わり、銅などが採鉱された。
本項では石見銀山の概要と歴史、および2007年に登録された世界遺産としての石見銀山についても言及する。

石見銀山の発見について
『石見銀山旧記』は鎌倉時代末期の1309年(延慶2年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩(北極星)の
託宣により銀を発見したという伝説について記しており、
この頃からある程度の露天掘りがなされていたと考えられている

その後、大内氏が一時的に採掘を中断していた石見銀山を再発見し、本格的に開発したのは博多の大商人、
神谷寿貞(博多三傑・神屋宗湛の曽祖父。姓については神屋、名については寿禎・寿亭とも表記される)であるとされている
海上から山が光るのを見た神屋は[5]領主大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て
1526年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。
義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪ったが、
3年後に再び大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。
1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法により精錬された。
この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。
灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され博多湊などで取引された。
灰吹法が広まることにより、酸化鉛の粉塵を吸い込んだ作業員は急性または慢性の鉛中毒を発症した。
鉱山での劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であり、30歳まで生きられた鉱夫は尾頭付きの鯛と赤飯で長寿の祝いをしたほどであった。
大森地内には若くして死んだ鉱夫たちの慰霊を目的として各宗派の寺院が多数建てられ、
鉱夫たちの家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみであったと伝えられている。

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