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北陸の旅→最後の更新は2013年12月23日 気比の松原 那谷寺 安宅関跡の石碑 吉崎御坊 丸岡城 兼六公園 金沢五木寛之文芸館 金沢城

気比の松原

三保の松原(静岡県)・虹の松原(佐賀県)と並ぶ。。
ここには「一夜の松原」という伝説があります。

聖武天皇の御代、この地に来襲した異賊。そのとき一帯は突然震動し、一夜にして数千の松が浜辺に出現した。樹上には無数のシラサギが。それはまるで、風にひるがえる旗差物。敵は数万の軍勢とみて、たちまち逃げ去ったのだという言い伝えが残っている。
三保の松原
那谷寺
那谷寺−(時間がなくて入り口だけで帰ってきました−残念!
歩いて回って見るのに2時間という案内にビビってしまいました。加賀の国では、清らかで白き神々の住む白山に死後の魂が登って清められ地上に回帰する、という信仰が生まれました。那谷寺の地には岩山と洞窟がたくさんあって、その洞窟は母親の胎内のようで、生まれる間に魂が清められる場所、魂のゆりかごの場所と信じていました。

那谷寺

安宅関跡の石碑


霊峰白山、西に日本海を遠望できるところに安宅関跡の石碑はある。
源頼朝に追われた義経がこの関を通る際、関守の富樫の厳しい尋問にあう。
この危機を乗り切るため弁慶が主君である義経を叩きつける姿に
感動した富樫が通行を許可したとされる
左から源義経、弁慶、関守の富樫左衛門尉です

勧進帳
関所跡の碑
関所跡の碑

今から約800年ほど昔、源平壇ノ浦の合戦で大功のあった源義経は、生来の猜疑心からこれを退けようとする時の征夷大将軍である兄、源頼朝に追われ、奥州平泉の藤原氏の元へ落ちのびようとした。頼朝はこれを捕らえようと各地に新関を設けた。
やむを得ず弁慶は義経を強力(荷役人夫)姿にかえて安宅のへと向かった。当時安宅にも冨樫左右衛門泰家を関守に命じ厳重警戒に当たらせていた。
文治3年(1187年)3月頃、山伏姿に変装した義経弁慶以下主従12人が安宅の関へさしかかる。
弁慶逆植えの松さざれ石

弁慶逆植えの松(向かって左)

石川県・安宅住吉神社のさざれ石(向かって右)
国歌「君が代」によまれている
「さざれ石」とは石灰石が長い年月の間に、雨水で溶解され、その時に生じた粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が次第に小石を凝結して、だんだん巨石となり、河川の浸食作用により地表に露出し、苔むしたものです。
吉崎御坊
吉崎御坊 「朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」

 その「白骨の御文(おふみ)」で知られる室町時代の僧、蓮如(1415―99)は、活発な布教活動で本願寺教団と呼ばれる強固な集団を作り上げ、後世への影響力からも、浄土真宗の中興の祖と言われる。

 蓮如は1471年、その宗教勢力の伸長を恐れた他宗の迫害を逃れ、琵琶湖畔から金津町吉崎に移った。わずか4年間の滞在だったが、吉崎御坊と呼ばれる布教拠点を築いた。
吉崎御坊吉崎御坊 吉崎御坊
丸岡城(まるおかじょう)福井県坂井市丸岡町霞にあった日本の城である。別名霞ヶ城。江戸時代には丸岡藩の藩庁であった。現在は天守のみ残る

丸岡城
(まるおかじょう)

福井県坂井市丸岡町霞にあった日本の城である。
別名霞ヶ 城。江戸時代には丸岡藩の藩庁であった。現在は天守のみ残る
丸岡城(まるおかじょう)は、
丸岡城(国指定重要文化財)は、桃山時代の天正4年(1576)に柴田勝家の甥、勝豊によって築かれました。
2重3層の天守閣は、領主の居館としての機能をもった望楼式天守で、現存する天守閣としては、
日本最古のものです。
丸岡城を建てた柴田勝豊は、清須会議の後に勝家の所領となった長浜城に移封。
そこで発病し、病床の中で秀吉の説得を受け秀吉に城を明け渡した。
その後、賤ヶ岳の合戦が勃発、勝家が敗北し北ノ庄城で自害する僅か1週間前に病没した。


兼六園は加賀百万石の藩主であった前田家が作庭した庭園で、宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望の6つの景勝を兼ね備えた庭園という意味で「兼六園」と命名されました。


兼六公園   雪吊は冬の風物詩として情緒を添える。
霞ヶ池を渡る石橋を琴に見立てて
徽軫(ことじ)をなぞらえた徽軫灯籠(ことじとうろう)は、
兼六園を代表する景観となっている。



「ことじ灯籠」

霞ヶ池
金沢城
金沢城
金沢城
加賀一向一揆の拠点としての金沢御堂、そして金沢御堂を攻略して佐久間盛政が築いた尾山城。
尾山城になってようやく、
小規模ながら城として体裁が整ったといわれます。
 石垣の築造など金沢城の整備は、文禄元年(1592)から慶長4年(1599)にかけて、
前田利家の長男利長が進め、
北に新丸を広げて大手門を築き、城の周囲を内惣構堀で囲みました。
浄土真宗の御堂を中心に寺内町として
形成された金沢は、利家入城後は城下町となり、前田家は明治までここを居城に、
百万石の加賀・越中・能登三国を統治しました。
 城下町金沢は典型的な封建都市として発達し、
明治初年人口12万で日本五大都市の一つでした。


金沢五木寛之文芸館
1932年、教員の松延信蔵とカシエの長男として福岡県八女郡に生まれる。生後まもなく朝鮮半島に渡り、父の勤務に付いて全羅道、京城など朝鮮各地に移る。
少年時代は、父から古典の素読や剣道、詩吟を教えられた。第二次世界大戦終戦時は平壌にいたが、ソ連軍進駐の混乱の中では母死去、
父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げる。

引き揚げ後は父方の祖父のいる三潴郡、八女郡などを転々とし、行商などのアルバイトで生活を支えた。1948年に(旧制)福岡県立八女中学校に入学、
ゴーゴリやチェーホフを読み出し、同人誌に参加してユーモア小説を掲載。福岡県立福島高等学校に入学、ツルゲーネフ、ドストエフスキーなどを読み、
テニス部と新聞部に入って創作小説や映画評論を掲載した。1952年に早稲田大学第一文学部露文学科に入学。
横田瑞穂に教えを受け、ゴーリキーなどを読み漁り、また音楽好きだった両親の影響で、ジャズと流行歌にも興味を持った。
生活費にも苦労し、住み込みでの業界紙の配達など様々なアルバイトや売血をして暮らした。『凍河』『現代芸術』などの同人誌に参加し、また詩人の三木卓とも知り合う。
1957年に学費未納で早稲田大学を抹籍された(後年、作家として成功後に未納学費を納め、抹籍から中途退学扱いとなる)。また、この頃に父を亡くす。

五木寛之文芸館 五木寛之文芸館五木寛之文芸館 五木寛之文芸館
五木寛之文芸館 五木寛之文芸館 石川県金沢市尾張町1-7-10
金沢が文学のスタート地点であり第二の故郷でもある作家五木寛之氏の全著作品をはじめ
愛用品や記念品などを展示。
元々は銀行だった建物を金沢市が改修し文芸館に生まれ変わりました。
五木寛之の配偶者である玲子さんの父親は岡良一氏(医学博士)で、
昭和14年社会党で石川県議に初当選し、以後衆議院議員6期、金沢市長を2期務められた、
金沢では有名な方です。
もともとは十全病院の医院長だったようで、この東山荘の近くに病院があります。

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