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関ヶ原古戦場→2013年12月24日


伊吹山
関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として
行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われた。
豊臣秀吉はその晩年、五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と
五奉行(前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家)を制度化して自らの死後の政務を有力大名や諸将に託そうとしていた。
ところが、豊臣政権下、秀吉の側近として政務を取り仕切っていた石田三成ら(いわゆる文治派)と
加藤清正・福島正則・細川忠興ら(いわゆる武断派)との間には対立を生じていた

政権内部での両派の対立の深刻化と家康と武断派諸将との接近などを経て、慶長5年(1600年)に行われた戦いが関ヶ原の戦いである。

関ヶ原の戦いで争った二派は、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍である
この戦いは実質的に徳川家康の覇権を決定づけることとなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84より引用しました。

岐阜城

素晴らしかったです。

天空の城
山の頂上にたつ城、感激しました。今までみたお城の中で一番、良かったです。
また遠くからでも見たいです。

左→信長の住んだいた発掘調査を本格的にしていました。
間違いなく、お城の下に住んでいました。


辛かった階段。膝の悪い私には過酷でした。
岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にある山城跡。

1201年(建仁元年) - 二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされる。
続いて行政の娘婿・佐藤朝光、その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資が砦の主となり支配。
二階堂行藤の死後、廃城となる。
15世紀中頃 - 美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。
山城。京都に対して東の要所に位置し、難攻不落の名城として知られているが、
実際には歴史上7回の落城にあっている。

織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、
1569年(永禄12年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡から伺える。
岐阜城は小牧城、安土城と同じく、
城下町を見下ろす景観に優れる。
つまり合戦のための城でなく、基本的に城主の居住空間であり、見せる城であった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E5%9F%8Eより引用しました。
岐阜公園、その他
画像→右
山内一豊と千代 婚礼の地の碑
一豊の妻である見性院(千代、まつ)は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、
嫁入りの持参金(貧しいながらも貯めたへそくりとの説もある)で名馬(鏡栗毛)を買った。
この逸話は特に第二次世界大戦以前の日本において教科書に採り上げられ、
女性のあるべき姿として学校教育に用いられた。

画像 下
岐阜事件(ぎふじけん)とは、1882年(明治15年)4月6日に岐阜で
、自由党党首板垣退助が暴漢(相原尚褧)に襲われた事件である。
板垣退助遭難事件、岐阜遭難事件ともいう。
「板垣死すとも自由は死せず」の由来となった事件として知られる
山内一豊、千代
板垣退助板垣退助 板垣退助

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