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憧れていた壇ノ浦、巌流島へ 2017年11月14日 娘たちと。

 平家最後の戦いの地、壇ノ浦と火の山公園へ
本州最西端の山口県下関市にあります。
関門海峡沿いに東へ進んでいくと関門海峡をまたぐ関門橋の下をくぐります。その先に壇ノ浦古戦場があります。
歴史を紐解いておくと、平安時代後期に武家として日本で初めて政権を掌握した平清盛が率いる平氏に対して、不満を持つ武士や貴族による反乱が始まります。
その最中に平清盛が病死し、源義仲(木曾義仲)の軍に攻められた平清盛の三男・宗盛は、安徳天皇と三種の神器と共に京の都から撤退、西へ逃れます。

その後、源義仲に代わって源義経を中心とする平家追討が始まり、源義経が鵯越(ひよどりごえ)を馬で駆け下りた一ノ谷(兵庫県)の戦い、
那須与一が船の上で扇を打ち落とした屋島(香川県)の戦いを経て、平氏は最後の拠点として関門海峡の西側にある彦島に退きます。
そして平家最後の戦いとして壇ノ浦の戦いが行われるに至りました。

1185年、源義経が各地の水軍を率いて壇ノ浦にて平清盛の四男・知盛率いる平氏水軍と対峙。関門海峡の激しい潮流の中で戦いが行われ、
最後は義経側の勝利となり、覚悟を決めた平清盛の母・二位尼(にいあま)は幼い安徳天皇を連れて三種の神器と共に入水、知盛、宗盛など多くの武将がここで命を落とし、平氏滅亡を決定的としました。
現在、壇ノ浦古戦場を望む場所は、みもすそ川公園として整備されています。

公園の中には壇ノ浦の戦いで平氏水軍を率いた平知盛が船の錨を担いだ「錨潜(いかりかづき)」の銅像と、
平教経と渡り合った源義経が舟から舟へ颯爽と飛び移った「八艘飛び(はっそうとび)」の銅像が対峙する形で置かれており、ここが歴史的に有名な場所だったことを今に知らしめています。


赤間神宮
鳥居と水天門

所在地
山口県下関市阿弥陀寺町4-1

主祭神
安徳天皇

赤間神宮

赤間神宮(あかまじんぐう)は、山口県下関市にある神社である。旧社格は官幣大社。壇ノ浦の戦いにおいて幼くして亡くなった安徳天皇を祀る。

江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、前身の阿弥陀寺は『耳なし芳一』の舞台であったが、廃仏毀釈により神社となり現在に至る

今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは

これは二位尼が入水する際に詠んだと言われる歌で、「海の底にも都はあります」という意味。
この歌に因み、太平洋戦争で焼失した赤間神宮を再建する際に「竜宮造り」という竜宮城をイメージした造営となりました。

芳一堂 - 『耳なし芳一』を祀り、芳一の木像を安置する。「耳なし芳一」は、誰しもが聞いたことがあると思います。
小泉八雲の怪談に出てくる話ですが、その舞台がこの阿弥陀寺(赤間神宮)。琵琶の名人であった盲人の芳一のことです。昔は盲人は琵琶を弾き、平家物語などの物語を琵琶に乗せて語っていました。
この芳一の琵琶があまりにも見事であったため、平家の亡霊がぜひ聞きたいと、ある夜芳一を連れ出します。そこにはたくさんの平氏の武将がおり、女子供もいました。「壇ノ浦の合戦」の件に、平家一門の亡霊は、芳一の琵琶の音・語りに涙を流します。
満足した平家の亡霊は「7晩聞かせて欲しい」と頼み、芳一は毎夜言われたとおりに出かけました

平家一門のお墓があります。

寿永4年(1185年)3月、平家は滅亡の時を迎えます。
安徳天皇は母が平清盛の娘・徳子(建礼門院)であったため、源平合戦で平氏が源氏に敗戦を重ねると、平家一門と一緒に都落ちすることに。
ここ下関の壇ノ浦の戦いで初めは優勢であった平氏も、潮の流れが変わると次第に劣勢になり、敗北が決定的となると安徳天皇の祖母である二位尼(平清盛の妻)が、安徳天皇を抱きかかえ入水。わずか8歳で生涯を終えます。
※京では寿永3年に元号を元歴に変えていましたが、平家は滅亡まで寿永を使用していました。

平知盛

安徳天皇ご入水

関門海峡に向かって大砲が並ぶ姿も見られます。壇ノ浦の戦いの時代には大砲などありませんので、もちろん後世のもの。

江戸時代末期、長州藩は攘夷の思想に基づいて関門海峡を封鎖して長州砲と呼ばれる大砲を設置、海峡を通過する外国船に向けて砲撃を加える武力衝突を起こしました。

最後は連合国に負けたことで、軍備の重要さに気づいて長州藩は薩摩藩と共に江戸幕府の倒幕に力を傾けることになりますが、その史実を後世に伝えるべく長州砲のレプリカが置かれています。ちなみにコインを投入すると砲撃音を出すものもあります。

源義経、平知盛の銅像と関門橋

源義経

源義経像 滝沢英明

巌流島 巖流島(がんりゅうじま)は、山口県下関市にある関門海峡に浮かぶ島(無人島)。正式な島の名前は船島(ふなしま)であり、住所は「下関市大字彦島字船島」となっている
武蔵と小次郎が決闘を行った日時は、『二天記』(安永5年(1776年))によると慶長17年4月13日(グレゴリオ暦では1612年5月13日)に行なわれたといわれるが、
それより半世紀前に書かれた立花峯均による『丹治峯均筆記』(享保12年(1727年))には武蔵19歳のときとあり、決闘時期には諸説あって実際は不明である。


武蔵と小次郎の戦いの像




森重香代子歌碑

宮本武蔵が島に渡った船を再現した「伝馬船」です。

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