愛知2→お城中心 2013年12月23日
長久手古戦場→ウィキペティアより引用しました。
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、 天正12年(1584年)に、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓) 陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で 行われた戦い。 当時は長久手ではなく長湫と表記された。 |
秀吉の台頭と織田信雄・徳川家康 家康が3月7日に出陣したことから、実質的には秀吉と家康との戦いとなる。 長久手の戦い 4月9日午前10時ごろ、ついに両軍が激突。両軍入り乱れての死闘は2時間余り続いた。 池田恒興は自勢の立て直しを図ろうとしたが、永井直勝の槍を受けて討死にした。 池田元助も安藤直次に討ち取られ、 池田輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱した。 やがて恒興・森勢は四散し遭えなく潰滅、合戦は徳川軍の大勝利に終わり、ただちに小幡城に引き返した。 羽柴軍に2,500人余り、徳川軍には550人余りの死者が出たとされる。これを長久手の戦い、 または特に仏ケ根の戦いともいう。 |
名古屋城→ウィキペティアより引用 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%9F%8E
名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城である。「名城(めいじょう)」、
「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、
「金城(きんじょう)」の異名を持つ。
日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。
姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。
大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっている。
大小天守と櫓、門、御殿などの一部は昭和戦前期まで残存していたが名古屋大空襲(1945年)によって大部分を焼失した。
戦後に天守などが外観復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。
加藤清正 |
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本丸御殿跡と天守 |
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戦国時代 16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた柳ノ丸が 名古屋城の起源とされる。 信秀は一時期この城に居住し、 彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。 のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、 1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、 廃城とされた。 |
徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、 名古屋に城を築くことを決定。1610年(慶長15年)、 西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。 最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正 |
犬山城
室町時代の1537年に建てられ、天守は現存する日本最古の様式です。
木曽川のほとりの小高い山の上に建てられた
織田信康(織田信長の叔父)
愛知県犬山市犬山北古券65−2
清盛さまよりお借りしました |
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清州城
清洲城は、清須城とも表記される。 天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、 清洲城にて清洲会議が行われ、 城は次男・織田信雄が相続した。 文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。 |
慶長12年(1607年)には 忠吉の九弟徳川義直が入城し、 清洲藩の本拠となった。 慶長14年(1609年)徳川家康によって、清須から 名古屋への遷府が指令されると、 慶長15年(1610年)より清須城下町は名古屋城下に 移転され(清洲越し)、 清須城も名古屋城築城の際の資材として利用された ウィキペティアより引用しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E5%9F%8E |
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清州城と大手橋 |
「信長公出陣の像」は、永禄3年5月19日、 青年信長公が弱冠27歳の時に、 清州城より桶狭間へ向かって出陣せん 首にかけた数珠は 、味方の士気を大いに高めたと言われています。 |
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