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愛知2→お城中心 2013年12月23日

長久手古戦場→ウィキペティアより引用しました。

長久手古戦場
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、
天正12年(1584年)に、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)
陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で
行われた戦い。
当時は長久手ではなく長湫と表記された。
秀吉の台頭と織田信雄・徳川家康
天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康は甲斐国の武田勝頼を滅ぼし上方に凱旋するが、
同年6月には信長が家臣明智光秀によって討たれる(本能寺の変)。
本能寺後には織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が光秀を討ち清洲会議において台頭し、
有力家臣の柴田勝家とは敵対的関係となった。

天正11年(1583年)4月、秀吉は近江賤ヶ岳の戦いにおいて織田信長の次男の信雄を擁立して、
信長の3男・信孝を擁する柴田勝家に勝利した。
大坂の地は秀吉が接収し、同年暮れ新築した大坂城に信雄を含む諸将を招いている。

天正11年に信雄は秀吉によって安土城を退去させられ、これ以後信雄と秀吉の関係は険悪化する。
秀吉は信雄家臣の津川義冬、岡田重孝、浅井長時(田宮丸)の3家老を懐柔し
傘下に組み込もうとするが、
信雄は天正12年(1584年3月6日)に親秀吉派の三家老を処刑し、徳川家康と同盟を結んだ。
こうして信雄は家康とともに挙兵し、
家康が3月7日に出陣したことから、実質的には秀吉と家康との戦いとなる。

長久手の戦い

4月9日午前10時ごろ、ついに両軍が激突。両軍入り乱れての死闘は2時間余り続いた。

池田恒興は自勢の立て直しを図ろうとしたが、永井直勝の槍を受けて討死にした。
池田元助も安藤直次に討ち取られ、
池田輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱した。
やがて恒興・森勢は四散し遭えなく潰滅、合戦は徳川軍の大勝利に終わり、ただちに小幡城に引き返した。
羽柴軍に2,500人余り、徳川軍には550人余りの死者が出たとされる。これを長久手の戦い、
または特に仏ケ根の戦いともいう。

名古屋城→ウィキペティアより引用  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%9F%8E
名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城である。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、
「金城(きんじょう)」の異名を持つ。
日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。

名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。
以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。
姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。
大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっている。
大小天守と櫓、門、御殿などの一部は昭和戦前期まで残存していたが名古屋大空襲(1945年)によって大部分を焼失した。
戦後に天守などが外観復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。

加藤清正
加藤清正
名古屋城 名古屋城
名古屋城
本丸御殿跡と天守
名古屋城 名古屋城
名古屋城 名古屋城 名古屋城
名古屋城 名古屋城 名古屋城
名古屋城
戦国時代

16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた柳ノ丸が
名古屋城の起源とされる。
この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられている。
1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し
那古野城と改名された。

信秀は一時期この城に居住し、
彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。
のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、
1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、
廃城とされた。
名古屋城
江戸時代
清須城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の戦い以降の
政治情勢や、
水害に弱い清須の地形の問題などから、
徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、
名古屋に城を築くことを決定。1610年(慶長15年)、
西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。
最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正

犬山城
室町時代の1537年に建てられ、天守は現存する日本最古の様式です。
木曽川のほとりの小高い山の上に建てられた
織田信康(織田信長の叔父)
愛知県犬山市犬山北古券65−2
昭和10年、国宝に指定されました。昭和27年規則改正にともない国宝に再指定されました。
全国唯一の個人所有の城として保存されてきましたが、平成16年(2004)、「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となって現在にいたっています。

犬山城
犬山城 犬山城犬山城
犬山城

清盛さまよりお借りしました
犬山城
犬山城 犬山城 犬山城

清州城

清州城
清洲城は、尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場=
旧西春日井郡清洲町)に
あった城。清須城とも表記される。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、
清洲城にて清洲会議が行われ、
城は次男・織田信雄が相続した。
小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らって除封され、
豊臣秀次の所領に組み込まれた後、
文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点
として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の
四男・松平忠吉が入るが、
忠吉が関ヶ原の戦傷がもとで病死すると慶長12年(1607年)には
忠吉の九弟徳川義直が入城し、
清洲藩の本拠となった。

慶長14年(1609年)徳川家康によって、清須から
名古屋への遷府が指令されると、
慶長15年(1610年)より清須城下町は名古屋城下に
移転され(清洲越し)、
清須城も名古屋城築城の際の資材として利用された

ウィキペティアより引用しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E5%9F%8E
清州城
清州城
清州城と大手橋
清州城 おのう 織田信長
「信長公出陣の像」は、永禄3年5月19日、
青年信長公が弱冠27歳の時に、
清州城より桶狭間へ向かって出陣せんと、
意気すでに今川の大軍を呑んでいるところを
表現した像です。首にかけた数珠は
、味方の士気を大いに高めたと言われています。
清州城跡

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